駿河国庵原郡蒲原町
蒲原宿
から由比宿へ
    江戸日本橋から蒲原宿まで147km、 蒲原宿〜由比宿間3.9km
                                   
この区間は連休真中の2002.5.2日にJR富士駅から歩いたが、これまで歩いた。
3月頃とは季節が変りとても陽気で、まさに歩き日和であった。
この区間には急流で有名な富士川があり、
そこを渡るということも楽しみであった。
蒲原宿は東海道の案内板や旧跡も整備されていて、
観光に力を入れている様子が伝わってくる宿であった。
また天候にも恵まれたのでこれまでと違いデジカメ写真も
出来がよかったのではないかと思うが、
所詮腕が悪ければどうしようもないことである。
JR富士駅富士川蒲原町岩蒲原町蒲原由比町

蒲原宿:江戸日本橋から15番目の宿。蒲原宿は富士川と駿河湾による水害と闘ってきた町で、当初宿は現在のJR東海道線の南側にあったが、1699年(元禄12年)8月5日の台風による大津波では宿の人と旅人あわせて60人も流されるという大被害を受け、山側の現在地に移された。
富士川の川止めでは大いに賑わった。また産業としては製塩が盛んであった。
 本陣:1、脇本陣:3、旅籠:42、人口:2,480人

  
 JR富士駅を降り北真っ直ぐ歩いて、富士本町通りの静岡中央銀行から左の道へ入るとそれが旧東海道ある。2車線の舗装された道を歩くとすぐのところの左側に道祖神(写真)がひっそりとったずみ水の一杯入った茶碗が添えられていた。ご近所の方が多分しかりお守りしていることなんであろう。
   
 さらに4分ほど歩くと小さな川を渡った左側に札の辻跡(写真)があり、ここは昔の高札場跡である。
   
 真っ直ぐ西へ向かって歩くと真正面に低い緑の山々が、すぐ近くにあるように連なっているのが目に入りまぶしいほどである。右側に秋葉常夜燈を見ながら歩き続けると県道と合流し、すぐJR身延線の柚木駅のガードをくぐる。そして札の辻から約15分歩いたところで県道が分岐し、そのコーナーに左東海道の道標と秋葉山常夜燈(写真)がある。この常夜燈は慶応元年に建立された古いもので、左側面には「町内安全」と刻まれている。右には「左東海道」と刻まれた道標の石碑がある。
   
 旧東海道は右手の道で100mほど行くと左に曲がるが、正面に小高い緑の土手が見える。これは雁堤(写真)といい、古郡重高、重政、重年の親子三代が新田開発と富士川治水のため築いた巨大な堤である。完成した1674年(延宝2年)まで50年以上もかかる難工事だっという。雁が連なって飛ぶ姿に似ているので雁堤と呼ばれるようになった。
   
 右手に雁堤を見ながら歩いて行くと左に曲がり再度県道と合流する。県道に出ると真正面に富士川にかかる緑色の鉄橋(写真)が見えてくる。
   
 鉄橋に向かって歩いて行くと、橋の右手前の少し低いところに松岡水神社(写真)がある。この神社は代官古郡孫太夫が堤防普請の成就を記念して創建したもので、富士川渡船の安全を祈願する人々が多く訪れたという。
   
 甲斐の国を水源とする富士川は天下に聞こえた急流で水量も多かったが、徳川家康の交通政策で、渡るには船を利用するしかなかった。船着場は、東側は橋のある周辺に上、中、下船居の3ヶ所あって川瀬の状況で使い分けていた。西側は橋を渡った右手にある。江戸時代はなかった(写真左)を渡ることになるが、右側に1.5m巾の歩道がついていた。ここを約6分歩いて渡ったが車が通るたびに歩道が揺れるし、風が強くて帽子が飛ばされそうだしで、結構渡りごこちはよくなかった。橋の途中から上流側(写真)を見ると、一杯に水面を広げた堰止からの白い流れが目に映えた。
   
 橋を渡ってすぐ右手の土手を数十mほど行くと、西側の渡船「上がり場」跡には、門倉了以の碑と秋葉山常夜燈(写真)がある。門倉了以(写真左の石碑)は江戸初期の豪商で、幕府の命でこの碑の立つ岩淵川岸から甲州鰍沢河岸までの70kmに及ぶ富士川開削工事の大工事を行った人である。1614年(慶長19年)に水路が完成すると、甲斐-岩淵-蒲原湊の船による交易盛んになり、岩淵はその中継点として栄えた。常夜燈は1820年(文政2年)に甲州通船と富士川渡船の安全を祈って建てられたもの。
   
 道路を横断してちょっと戻って右の細い道に入り、小高い山の坂道を眼下に富士川を見ながら登っていく。ちょうど登りきった右手に光栄寺があり、左に曲がって秋葉山常夜燈を右に見ながら300mほど行くと、右に岩淵脇本陣跡(写真)でがある。ただここには跡碑がなく、常盤さん宅の黒塀がその目印となる。正面左側には常夜燈がある。
   
 殆ど車が通らない、のどかな道を約200m行くと右に長い新豊院の参道(写真左)がある。この山門(写真右)は本柱を門の中心線から前方にずらし、本柱と控え柱を結ぶ梁の中間の上に束をたてて屋根をのせる、薬医門形式とのこと。現場で首をひねりながらでないとその意味がよく理解できなかったので、詳細説明は割愛する。
   
 この道は高台にあり、平坦な道で陽気もよく、まさに旅に来ているという気分を味わらせてもらった。さらに約300m行くと道は右に90度曲がり、コーナーには江戸より37里の岩淵の一里塚(写真)がある。とても見事な枝振りで江戸時代からのものということである。
   
 一里塚を右に曲がり、ゆるい坂道をりしばらく行くと今度は左に曲がり道なりに歩いて行くと、左右に常夜燈がある。この先も含めて大変常夜燈の多い町であり、よくみると秋葉山常夜燈と単なる常夜燈があることが分かった。何故2種類あるのか不明であるが、秋葉山常夜燈は火事の神様として信仰のある燈で、東海地方に非常に多い。さらに行くと三叉路があり、小永井紙工所のところを右に曲がり下って行くと東名高速道路のガード下をくぐる。道は大きな野田山不動明王の石碑のところで分岐しているが、左が旧東海道でさらに下り坂を歩いて行く。辺りはまさに風薫る新緑の五月ということを満喫させてくれた。右に常夜燈、宇多利神社を見ながら歩いて新幹線のガード下をくぐり、200mほど行ったあたりから、山道のような感じで登り勾配が始まる。そのまま登って行くと左側下方に東名高速道路が見えてくる。約200m東名高速度道路に沿った道を登りきったところで、左に曲る新坂橋跨道橋(写真)を渡り東名高速を横断すると、ここから蒲原町となる。
   
 ここから道なりに遠くに駿河湾を見ながら600mほど下って行くと、道の左側に江戸日本橋から38里の蒲原一里塚跡碑(写真)がある。
   
 約3分歩くと右側の諏訪神社の脇に蒲原宿の東木戸跡の石柱(写真左)常夜燈(写真右)がある。江戸時代宿の宿場の入口には見附や木戸と呼ばれるものがあり、蒲原宿には木戸が設置されていて、東の入口のことを東木戸と呼ばれていた。木戸と木戸の間のことを木戸内という。また東木戸跡に残っている常夜燈は1831年(文政13年)に作られたものである。
   
 この道筋には旧家が多く残っていて、八坂神社の鳥居の脇にある元佐野屋という商家のなまこ壁と塗り家造り(写真)もその一つ。壁は塗壁で、町家に多く見られるもので、このような町家を塗り家造りという。
   
 東木戸跡から約5分のところに小さな川にかかる橋があり、そこを左に曲がって数十m行くと公園の片隅に蒲原夜之雪の記念碑(写真左)がある。蒲原夜之雪の絵(写真右)は、歌川広重が1832年(天保3年)に京へ上った折、この地で描いたもので東海道53次シリーズの中で最高の傑作といわれている。昭和35年当該絵が国際文通週間の切手になったことを記念して、広重が描いた場所に近いこの地に碑を建てたものである。
   
 橋から数分歩いた左側に蒲原本陣跡(写真)がある。黒塀の建物は大正時代に建てられてものであるが、土蔵などは今でも残っているという。
 少し歩くと左側に御殿場道跡の石柱(写真左)があり、この辺から御殿道(写真右)が始まる。かってこの辺りに徳川家康が、武田氏を攻めて帰る織田信長慰労するために建てた蒲原御殿があった。その後徳川将軍が東海道を往来するたびに、整備され規模が拡大して相当広い範囲になった。そしてここから下る道を御殿道というようになった。
   
 御殿通りを真っ直ぐ西へ行くと丁字路になり、左に曲がると県道396号線と合流する。その左のコーナーに蒲原宿西木戸跡石柱(写真左)茄子屋の辻(写真右)がある。この茄子屋の辻は乱闘事件があったことで有名なところである。1653年(承応2年)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が江戸へ行く途中、興津川付近で薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍に触れたことでトラブルになり、辱めを受けた。大久保はその場ではこらえたが茄子屋辻で行列を待ち伏せして、70人近くの薩摩藩侍をて屈辱を晴らした。しかし自らも傷を負い力尽きて討たれてしまった。当時の竜雲寺の住職が亡骸を墓地に埋め供養した。竜雲寺には大久保の槍の穂先は寺宝となって残されているという。
 ここから先は、左手にJR東海道本線、右手に東名高速道路に挟まれた平坦な道を、真っ直ぐ西へ進む。約2.3km歩くと東名高速のガード下をくぐり、由比宿へ入る。
     
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