駿河国庵原郡由比
由比宿から興津宿へ
江戸日本橋から由比宿まで 150.9km、由比宿〜興津宿間 9.1km
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この区間は2002.5.2吉原宿、蒲原宿に引き続いて歩いた。
ここには薩堙峠からの富士山が特に有名であるが、
ちょうどその頃は夕方になり、薄暗いところでの拝観となってしまった。
人生なんてそんなもんなんだろうな、とつい思ったりした。
蒲原町由比町由比由比町寺尾 薩堙峠清水市

由比宿:由比宿は鎌倉時代から湯居の名で知られた古い宿である。由比宿は海と山に狭められた海岸沿いの小さなのどかな宿で、現在でもひなびた風情を味わうことができる。由比港の桜えびの水揚げ高は日本一で、町最大の産物となっている。毎年5月には桜えび祭りが開かれる。昔は製塩なども行われていた。
 本陣:1、脇本陣:1、旅籠:32、 人口:713人。
 東名高速のガードをくぐると一つ目の信号で道は分岐し、左手の道が旧東海道である。少し歩くと江戸から39番目の由比一里塚があり、そこから約4分のところで目の前に枡型道(写真左)が現れる。昔宿場の出入り口は枡型に折れまがり、木戸が作られ、万が一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに宿の出入り口の道標にもなっていた。ここを通り過ぎると町並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていた。由比宿もそのように東西の入口は枡型に折れ曲がっている。入口のすぐ左側にある家は商家(志田宅)(写真右)で、家歴も古く屋号は「こめや」といい、昔のたたずまいの面影を残している。入口を入ると昔のままの帳場、箱階段などを見ることができるという。
   
 さらに5分ほど歩くと、右に由比本陣公園・東海道広重美術館(写真左)があり、門から入るとときれいな芝生庭園と美術館(写真)がある。庭園には本陣跡の表門、物見櫓、木塀などが復元されている。また美術館には、歌川(安藤)広重の「東海道五拾三次之内」「木曾海道六拾九次之内」など大  変貴重な版画などが納められていて、一見の価値がある。
   
 本陣公園の門を出た右側の塀に沿って幅広い水路(写真)ある。これは馬の水呑み場といい、大名行列の馬に水を呑ましたり身体を洗ったりしたところで、巾1m、深さ0.6m、長さ20mある。屋敷の前の道路にこのような施設のある本陣は、あまり多に類例をみない珍しいものとのこと。
  
 本陣公園前には正雪紺屋の店(写真)がある。この紺屋(染物屋)は江戸時代から400年続いているといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物道具や、天井に吊れれた用心籠は火災等の時に貴重に品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正雪はこの紺屋の生まれということで、正雪紺屋の屋号がつけれられたという。
   
 さらにちょっと歩いた左側に弥次・喜多さん(写真)に出会ったような錯覚を覚える光景が飛び込んでくる。これは人形で確か食事をする店の宣伝だったと思う。
   
 さらに数分行くと、由比川にかかる由比川橋(写真)を、左手にJR東海道線とその向こうに駿河湾を、右手の遠く県道を見ながら渡る。
ここで由比名産の桜えびを簡単に紹介する。桜えびは駿河湾でしかとれない体長3〜5cmの小さいえびで、漁期は春と秋である。明治時代に漁師が偶然桜えびを採ったのが最初であった。JR新蒲原駅南口駅前に桜えび漁船が置いてある。

   
 ここから約20分道なりに西へ歩くと、JR由比駅手前で県道396号線と合流する。JR由比駅あたりから道は登り勾配になり、100mも歩かないうちに県道と別れて歩道橋を渡り右の細い舗装された道を進む。この道は緩やかな登り勾配でまたここから望嶽亭までの約1.6km区間に可愛らしい小川(写真)が何箇所もあり、順に寺尾橋、寺尾沢橋、中の沢二号橋、大沢橋、寺沢橋、倉沢橋がかかっている。いずれも一跨ぎできそうな小さな橋である。
   
 歩道橋から寺尾地区の町並(写真左)へ入るが、この道巾は昔と変らず、ところどころに格子戸や蔀戸の古い家を見ることが出来て、情緒を感じさせる街道である。さらに道々左側には駿河湾や富士山などの山並みが見えてとても美しい景色(写真右)が堪能できる。なお寺尾の地名は昔この地に南方寺という真言の寺があったことに由来するという。
   
 歩道橋から約1.3km登ってくると、寺尾区民会館付近が頂上になる。今度は下り坂になりちょっと歩くと右側に寺尾の旧家の小池邸(写真)がある。小池家は江戸時代々小池文右衛門を名のり寺尾村の名主を務めた。現在の建物は明治期に建てられ、大戸、くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しているとのこと。なおこの建物は東海道を行き交う人の休息の場として由比町が購入し、提供しているもの。
   
 道は再び登りになり、約300m行った街道のはずれに望嶽亭藤屋(写真左)がある。本来は藤屋という茶屋であったが、ここからの富士山の眺望の眺望が素晴らしいので「望嶽亭」と称されるようになった。訪れたときたまたまこの屋の77才のおばあちゃんに室内を案内してもらった。玄関から真っ直ぐ広間を通り抜けて突き当たりの海側の廊下に出た。ガラス窓越しに見る駿河湾と富士山は、屋号通り素晴らしいものであった。次に廊下を右に行くと突き当たりに頑丈な扉がある山岡鉄舟を匿ったという土蔵の間に案内された。部屋は10畳程度の畳で正面と真中に、鉄舟から貰ったという鉄砲(写真右)やその他記念のものが沢山飾られていた。おばあちゃんの話では今から4代前のおかみさんの時、官軍から追われていた鉄舟をこの土蔵にかくまり、その後清水次郎長に紹介状を書いて漁師に変装させて裏の岩浜から舟で逃がしたとのこと。逃げる時使用した隠し階段は土蔵の入口から入って左の隅にあり、とても急な廻り階段であった。なお土蔵の階は道路からは1階に見えるが、浜側からは2階となる。
  
 望嶽亭を出るとすぐ道が分岐していて、右の登り坂道が旧東海道で薩堙峠へ行く道である。登り口の右側に江戸日本橋から40番目の西倉沢一里塚跡碑(写真)がある。
   
 ここから峠まで1.2kmの標識を見て登り始めると、時間は既に16時半を過ぎていて周辺はそろそろ暗くなっていた。急いで坂道を登って行くと道の両側に枇杷の木(写真)が多数あり、さらに行くと今度はみかんの木に変った。このように枇杷とみかんが交互に植えられていた。
   
 登りながら前方を見ると、清水港(写真)が遠くにいつまでも見えた。
   
 ようやく17時10分に薩堙峠にたどりついたときは、もう周は暗くなってしまっていて、折角の絶景も堪能できなかった。峠には薩堙地蔵道標(写真左)が大小2本あり、左の大きい方は「さったぢざう」、小さい右の方は「さったぢぞうミち」「延享元甲子年六月吉日」と刻印がある。正面の駿河湾の左手を見ると、うっすらと富士山の姿(写真右)が見えたが、写真ではわかるだろうか。眼下には海岸との狭いスペースにJR東海道線、国道一号線、東名高速がひしめいていた。
 またここには薩堙山合戦の説明板がある。それによるとここで2度合戦があり、「一度目は1351年
(観応2年)で室町幕府を開いた足利尊氏と、弟の直義の兄弟による戦いで、ここで山岳戦をして直義軍が敗退した。2度目は1568年(永禄11年)駿河に侵攻した武田信玄を、今川氏真が討つべく薩堙峠で戦ったが敗退した。」とある。
薩堙(さった)峠:鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引きあがられた薩堙地蔵をこの山に祀ったので、それ以降薩堙山と呼ばれている。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。この山に道が開けたのは1655(明暦元)年朝鮮使節を迎えるためで、それ以前の東海道は崖下の海岸を波の寄せて引く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親知らず子知らず」の難所であった。峠の道は大名行列も通ったので、道幅は現存よりも広く4m以上あった。現在のように海岸の道を通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で、地盤が隆起し陸地が生じた結果である。
   
 峠を後にして少し歩くと、道は3つに別れるので左の方へ行き、駐車場のはずれから駐車場へ降りる。旧東海道はこの駐車場を横断して行くが、駐車場内の右奥隅のコーナーは展望台になっていて、薩堙峠山之神遺跡碑(写真)が建っている。これは薩堙峠付近の山畑開墾の際に祀られた山神を昭和7年に他へ遷座したので、遺跡地に記念碑として建てたもの。
   
 展望台の脇の階段を下りて、2m巾程度の砂利の山道を道なりに下って行くと、由比町と清水市の境界石(写真)に出会う。ここから興津宿に入ることになる。
   
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