駿河国清水市興津町
興津宿
から江尻宿へ
江戸日本橋から興津宿まで160km、 興津宿〜江尻宿間4.1km
                            
この区間は、2002.5.2に興津駅迄、2002.5.4にそれ以降歩いた。
天候は両日とも曇りで風はなし、気温は適当というところ。
区間の多くは左に静清バイパス、右に東海道本線に挟まれている海岸沿いの淡々とした道。
国指定史跡となっている清見寺には多数の史跡、遺構があり一見の価値は十分あった。

昔は今以上に、清見寺からの海の眺望はすばらしく多くの人に愛されたという。
清水市薩堙峠興津川橋興津宿清見寺門前町辻3丁目江尻宿へ

興津宿:昔は奥津、息津、沖津とも呼ばれていた。興津は、興津川の下流部にあり、東は興津川、薩堙峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関は坂東(関東地方)への備えの役割を果たしていた。
東海道17番目の興津宿場は、難所の薩堙峠を越えてきた旅人の休憩として、越えて行く旅人の旅装を整える宿として賑わいを見せた。町並みは東西に4.2kmあった。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐する、交通の要衝であった。
興津は明治元勲たちの別荘地でもあった。東海道線が静岡まで開通し興津駅ができた明治22年のその年、皇太子(大正天皇)が清見寺に滞在し海水浴を楽しんだことが全国的に有名になり、それがきっかけで、伊藤博文、松方正義、西園寺公望など多くの人がこの地に別荘を建てた。
 本陣:2、脇本陣:2、旅籠:34、人口:1668人

   
薩堙(さった)は、鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引きあがられた薩堙地蔵をこの山に祀ったので、それ以降薩堙山と呼ばれている。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。この山に道が開けたのは1655(明暦元)年朝鮮使節を迎えるためで、それ以前の東海道は崖下の海岸を波の寄せて引く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親知らず子知らず」の難所であった。峠の道は大名行列も通ったので、道幅は現存よりも広く4m以上あった。現在のように海岸の道を通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で、地盤が隆起し陸地が生じた結果である。(再掲)
   
由比町の薩堙峠から2m巾程度の狭い山道を下ってくると、由比町と清水市の境界石があり、そこには清水市指定名所薩堙峠の標識(写真)がある、今通り過ぎてきた峠にも 薩堙峠の標識があったが、それは由比町のものであり、清水市としてもちゃんと標示しないといけない、ということだと思い合点がいった。
   
山道をさらに下り続け平地に降りてくると、海岸寺(写真)がある。元禄9年の開山で、本堂の波除如来を中心に左右50体ずつの百体観世音が祀られている。大正4・5年の台風で、打ち寄せる大波に付近の村落は全滅したが、犠牲者が一人も出なかったのはこの観世音のご利益だと、言い伝えられている。
   
左折して、JR東海道本線の踏切を渡り国道1号線に出て西南へ約200ほど行き、興津川にかかる興津橋をわたる。昔はすぐ北側にあるJR東海道本線の鉄橋付近で、3月5日から10月5日間は水深が約42cmと浅かったので有料の駕籠に乗って越え、冬は増水のため仮橋で無料でわたったという。ゆるいカーブを画いて約400m行くと道は静清バイパスに接近し、海岸沿いの道(写真)を直進して行くと興津宿の興津本町の町並みに入る。
   
右手に郵便局を見て進んで行くと、右側に身延山道道標(写真手前)とともに大きな題目碑(写真後)がある。明治時代に廃寺となった石塔寺の門前にあったもので、題目碑の高さは3mもあり、また南無妙法蓮華経の文字を日蓮宗独特のヒゲのように跳ねて書いてあることから、髭題目と呼ばれている。
   
されにその先の右の民家には、江戸から41里の興津一里塚跡碑(写真)がある。
やがて右手にJR興津駅が見え、さらに700mほど進んだ道端の右に、興津宿東本陣跡碑(写真右)とその先に西本陣跡碑(写真左)が立っている。この辺りが宿場の中心であったのであろうか。
   
さらに100m先右の清見寺門前の石垣一角に、清見関跡標柱(写真)がある。昔はこの辺りは山塊が海辺に突出していて、その下を東海道が通るという要衝となっていたため、白鳳時代(672〜686)に関所が設けられた。
   
清見寺(写真)は、階段を登り山門(1651年、慶安4年建立)を潜ってから左折、右折してJR東海道本線を横断したところにある。(写真山門の右奥に鐘楼が見える)
清見寺:東海道屈指の名刹。白鳳時代に清見関が設けられた際、その守護として仏堂が建立されたのが始まりで、1261
(弘長元)に関聖明元が再興した。さらに足利尊氏や、今川義元の軍師の太原崇孚によっても再興された。徳川家康は今川義元の人質となっていたときにこの清見寺に遊びに来ている。ただその後、家康はこの寺が敵方の武田軍の陣となることを恐れ焼き払ってしまった。現在の寺の多くの建物は江戸時代に再建されたものである。境内には家康の愛した庭園(江戸初期の作)やお手植えの臥龍梅、梵鐘、五百羅漢、琉球王国王子の墓など多くの遺跡、遺構がある。また平成6年に境内全域が朝鮮通信使関係史跡として国の史跡に指定された。
   
梵鐘(写真左)は1314年(正和3年)に鋳造され、総高140.2cm 鐘身高113cm 口径80.7cmで謡曲「三井寺」に出てくる。また豊臣秀吉が1590(天正18)年に韮山城を攻めたときに陣鐘に用いられた。鐘楼(写真左)は1862(文久3年)建立。仏殿(写真中)は1844(天保13)年建立。五百羅漢(写真右)は1788(天明8)年彫造。
   
1号線を道なりに西へ約700m歩くと静清バイパスのガード下で波多打川にかかる小さな波多打川橋を渡り、そこで1号線と分れて1号線に平行して西へ進む。横砂東町で1号線と再度合流し300mほど行くと横砂本町の入り、右に東光寺の山門(写真)がある。山門の門戸は珍しい格子造になっている。これは江戸時代、勅使が江戸へ行く途中興津川の氾濫で足止めになり東光寺に泊まることになっため、急遽山門を作ったためだという。
   
道は西南へ向きを変えて、庵原川にかかる庵原橋を渡り横砂西町を経て袖師町に入り東光寺から約1km進むと、道の右にきれいに手入れされている馬頭観音(写真)がある。
   
さらに約1km行くと辻3丁目で道は分岐、左は1号線で右が旧東海道となる。その分岐点に細井乃松原(写真中)がある。1604(慶長9)年2代将軍徳川秀忠が街道の両側に松を植えさせ、1612年に完成したといわれている。松原の全長約360mに松の本数が1106本あったという記録が残されている。これらの松は昭和19年に太平洋戦争で松根油(航空機燃料)の原料として伐採され、現在は全く見ることができない。現在の松は平成6年に植樹されたもの。
 松根油のために松を伐採したとき、この地から多数の人骨が発掘されたが、多分東海道の旅で行き倒れになった人々を埋葬したものであろうと、この場所に
供養碑(写真)を建立した。
またここに、興津宿と江尻宿への分岐を示す
東海道道標(写真)がある。
 ここから先は江尻宿へ向かうことになる。
          
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