武蔵国川崎市
川崎宿
から神奈川宿
江戸日本橋から川崎宿まで 17.6km、 川崎宿〜神奈川宿間 9.8km
                         
この区間は2002.2.10日品川宿の延長上で歩いたが、
午前の晴れ模様が急転し天候は悪くなり、
降り出した雨と風そして寒さでひどい状態の歩きであった。
京急鶴見市場で中断して、翌日の2月11日に再度歩いた。
なお川崎宿の範囲はここでは川崎市と横浜市鶴見区までとした。

川崎市→横浜市鶴見区横浜市神奈川区

(実は川崎宿から神奈川宿まで撮ったスマートメディアの画像が300枚ほど突然消失してしまい
メーカーに復元してもらったが、約2割が復元不可能で当該ページで使用する画像も少なくなった。
後日写真を撮り直し加算したいと思っている。)

川崎宿:川崎宿は他の宿より22年遅れて元和9年(1623)につくられた。開設後は厄除けで知られる川崎信仰が広がると共に旅人以外にも多くの参拝客の往来で大いに栄えた。川崎宿の地形は低地で多摩川の氾濫でたびたび冠水していたので周囲に盛土して作られ、旧東海道も極力微高地を通るようにして作られた。
また慶安、元禄の大地震、宝暦11年(1761)の大火、関東大震災、太平洋戦争での空襲と大災害に見舞われて壊滅し,殆ど当時の面影を残しているものはない。特に宝暦以前の歴史文献は全くないと言れている。
 旅籠72軒、本陣2、脇本陣0、人口:2433人
   
六郷橋の左側歩道を通って対岸に着くと、ここは川崎宿。雨と共に風も吹き始め寒さが身にしみる最悪のコンディションとなる。橋のたもとに川崎大師の灯篭(写真)があり、さすが全国的に名をはせている大師さまである。なおここには明治天皇が明治元年東下時この地点から、23隻で作られた船橋で六郷川を渡ったという明治天皇渡御碑もある。
    
ここから橋沿いに20m程行って六郷橋の下を右に曲がり国道409号線の本町信号点を横断してしばらくいくと、右側に田中本陣跡の碑(写真:川崎区本町1-4-6)があるが、現在は当時のものは何も残っていない。当主の田中丘隅は流失した六郷橋の代わりに船渡し場をもうけたりして宿場財政を再建し発展に大変貢献した人であるという。
   
川崎市街地は大火や戦災で殆ど焼けつくされたり開発されてしまっていて、寺なども建替えられ、史蹟も殆どなく当時の景観はない。その中で、川崎宿貸座敷組合が建立した飯盛り女の供養塔(写真右)がある宿内一の古刹と言われる宗三寺(写真左)へ行ってみた。墓地の入口から一番遠い角地にひっそりとその供養墓があり、新しい花が供えられていた。いわばこの無名の墓に今でも誰れかが訪ねて来てくれているのだと思うと、心がうるんだ。
   
そのまま、川崎駅前の砂子信号交差点を横断し、次の小土呂橋交差点を横断する。この小土呂橋は東海道と新川堀の交差地点にあった石橋で現在は暗渠となって姿を消したが地名と擬宝珠が残っている。しかし小土呂橋の擬宝珠(写真)を探しまわったが見つからない。最後の手段として、その近くでおにぎりの立売していた若い女性におにぎりを買う約束で所在を尋ねたら、なんと私の真後にあるではないか。ただ道路樹と多数の自転車で覆われていて外からは全然見えないようになっていた。今回歩いてみて多くの碑や史蹟がこのように自転車やバイクで囲われた状態にあり、写真もまともに取れないことが多数あるということがわかった。関係者に善処願う以外処置のしようがないのだろうか。腹がすいていないのに約束通りおにぎりを3コ買って道々食べた。
    
道を直進していくとやがて八丁畷付近にたどりつく。畷という難しい漢字を書くが、東海道では何々畷という場所が大変多い。畷とは縄を張って真っ直ぐな道を作ったということである。
この八丁畷は畑の中を真っ直ぐに伸びる八丁
(約870m)あったということ示している。この地に芭蕉句碑(写真:京急八丁畷駅前、文政10年(1694)建)がある。句碑には、芭蕉が元禄7年(1694)に望郷の念にかられ江戸の庵を発ち郷里の伊賀へ帰る道中、同道してきた門弟たちとの別れを惜しんで詠んだ句「麦の穂をたよりにつかむわかれかな」が刻まれている。なおこの年の10月に芭蕉は亡くなっている。
(芭蕉の句碑を撮る時、デジカメの電源切れでフラッシュが利かず暗い写真になってしまった。)
 これ以降雨と寒さが厳しくなったがそのまま歩いて、川崎市と横浜市の境界を越えて京急鶴見市場まで歩いてこの日は終わりにした。
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2/11京急鶴見市場から歩き始めた。駅の直前にある「夜光石」や「お乳石」で有名な専念寺は、用心のためか門扉を固く閉ざしていて入れなかった。また近くにある徳川家康入国に際し武運を祈った神社という由緒ある熊野神社へ行ったが、境内の手入れが行き届いていないような感じがするガランとしたさびしい風景であった。
   
そこから700mほど行くと、鶴見川にかかる鶴見川橋(写真:)が見える。この橋は古くは東海道の「鶴見橋」として利用されていたが、H8年に現在のつり橋構造で架け替えられた美しい橋である。
    
鶴見川橋を渡るとすぐ道路の左側に鶴見川関門旧跡(写真:鶴見区鶴見町1912)がある。安政6年(1859)横浜開港とともに外国人に対する危害防止のため横浜への主要道路筋には関門や番所をもうけて横浜に入る人を厳しく取り締まった。鶴見橋関門は万延元年(1860)に設置された。
   
400m程行くと国道14号線を横断するとすぐ右手奥に、推古天皇時代に創建と伝えられる古い由緒ある鶴見神社(写真:)がある。
   
さらに京急鶴見の東側のガード下をくぐって国道15号線を横断して行くと生麦魚河岸通りに出るが、その中間ほどのところで総持寺への案内板が出ている。 ここを右折して京急とJRの踏切を横断していくと50ヘクタールを越える広大な境内を有する曹洞宗大本山の総持寺(写真:鶴見区鶴見町2-1-1)の門に入る。総持寺は日本屈指の巨刹である。元享元年(1321)能登に創建され、越前の永平寺と並ぶ禅門の大道場であったが、明治31年の大火で消失したことを機に明治40年にこの地に移された。境内には50以上の伽藍があり、有名人の墓も多数ある。石原裕次郎の墓には今でも毎月未亡人の北原三枝がお参りに来ているという。以前訪れたことのある裕次郎の墓を探したが、敷地があまりにも広くて探しあてることができなかったので写真は割愛した。
   
再度旧東海道に戻るとJR鶴見線の「国道」という珍しい名前の駅の脇のガード下をくぐると、生麦魚河岸通りとなる。ここは古くからの漁村で、名前の通り約80の鮮魚店が並ぶ河岸で一般人も新鮮な魚介類を安く買うことができる。国道駅から500m行った右側に道念稲荷神社(写真:)があり、「蛇も蚊も」という何か意味ありげな標識がある。この「蛇も蚊も」とは約300年ほど前に疫病が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したということで、今でも毎年6月に蛇体を若者と子供が担いで「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声で唱えながら町内を練り歩く行事で、横浜市指定の無形民俗文化財になっている。
  
さらに1.2km行くと国道15号線との合流点となり、そこから20m程の中華料理店に隣接して生麦事件碑(写真左:鶴見区生麦1-16-2)がある。この地で薩摩の島津久光の行列の前をイギリス商人リチャードソンら4人が、騎馬のまま横切ろうとしたので、怒った薩摩藩士がリチャードソンらを殺傷したという有名な事件である。建屋内に収められている碑面(写真右)には、鶴見人黒川荘三の所有の地で殺傷があったことを誌すとあり、この事件のようなことが発端となって日本の近代化が推進されたのであるから恨むことなく微笑んでくれと、リチャードソンの霊を慰めている内容とのこと。
なおこの事件碑は明治16年に黒川荘三が私費を投じて建設したもの。
ここから500m離れたところに
生麦事件参考館もある。
   
この事件碑から1軒おいたところに、キリンビアレッジ正門があり、平日キリンビールを見学するとビールを試飲できる。以前は近隣に勤務していたので時々見学して恩恵に与った記憶がある。
ここから少し行くと20年ほど前に私が勤めていた工場があり懐かしく思ったが、周囲の状況は当時と全く趣が変わっていて、工場地帯は今やマンションだらけになっている。新子安駅方面へ歩いていると突然真ん前に昔はなかった
巨大なビル(写真)がそそり立っていた。もう神奈川宿が近い。
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