古河宿から野木宿へ
 (宿間距離 2.8km)
              
この区間は2003.11.2に歩いた。
前日古河駅前のホテルに宿泊して旅の疲れがすっかり取れたせいか、
快晴の青空がことのほか快く感じた道中であった。
古河宿は茨城県古河市にあり、古河城の城下町で、
徳川将軍が日光参詣の折宿泊や休憩に使った3城の一つ(他に岩槻、宇都宮)であった。
古河城は熊沢蕃山が幽閉されていたこと、南総里見八犬伝の舞台になったことなどでも知られている。

    
快晴。こういう日はとても気分さわやかで、腕に関係なく写真の成果もよいことが多い!?
JR古河駅前を8時頃出発したのであるが、駅前にどうどうと目立つ石碑が目に留まった。これは万葉集
(約1200年前編さん)に詠われている古河の地の歌集を刻んだ碑である。
逢わずして行かばおしけむ まくらがの許我(こが)こぐ船に君も逢はぬかも
まくらがの 許我(こが)の渡りのからかじの音高しもな寝なへ児ゆえに
                                     いずれも詠み人知らず

   
JR古河駅西口から西へ向かい県道261号線に出る。そこから北へ向かうのが旧日光街道となる。
本町2丁目信号の交差点の右角の若野屋着物店前に「
史蹟 古河城下高札場跡がある。
   
さらに路の反対側の斜め向かいに本陣跡碑がある。
   
このあたりが古河宿の中心で、街道沿いの宿場は、原町、台町、一丁目、二丁目、横町と続き、道幅は約10m、延長約1.8kmあった。旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女がことのほか多い町だったという。
   
少し歩くと左側の一段高い鞘堂に、文化11年(1814)に建立されたという金毘羅宮がある。この彫刻は下毛国後藤藤政秀師作で建立のころは四面金箔が施された壮観なものであったという。
   
さらに歩き信号のある十字路で、旧日光街道は261号線と別れてブロック舗装された道へ左折する。
   
左折すると右側の2軒目に脇本陣だった太田屋旅館が当時の面影を残して現存している。
   
すぐその先の右側には、神宮寺がある。大安3年(1446)開基の寺で、1455年古河公方の始まりとなった足利成氏とともに鎌倉からこの城に移って来た由緒ある寺である。その後元和6年(1620)にこの地に移されて神宮寺と改号し、元禄4年(1691)に類焼再建され、また大正7年(1918)に大修理して現在に至っている。この寺に安置されている十一面観世音菩薩は茨城県の有形文化財に指定されている。
  
道を挟んで左斜め前には、常夜塔が上に乗っている大きな道標があり、正面に「左日光道」、右側面に「東筑波山」、左側面に「右江戸道」と刻まれている。もとは先ほど左折した交差点にあったという。
   
左折してから100mほど歩くと十字路があり、旧日光街道は右折してブロック道を進む。
   
きれいに整備された道を1分ほど歩くと、右側に「よこまち柳通り標識がある。ここには昔遊郭があったところというが、なんとなくそれらしい風情を残しているような気がする。それはともかく快晴の青空のもと、朝の引き締まった空気を胸一杯に吸い込んで人通りのない道を歩くのはとても気分爽快である。
   
道の左側には「古河堤灯芋もみもみ祭り発祥の地」と刻まれた石碑が建っていて、毎年12月第1土曜日に祭事が行われているという。
   
よこまちやなぎ通りを淡々と約600mほど歩くと、右に本成寺がある。
   
そのすぐ先で、先ほど別れた県道261号線と合流し、古河宿の終わりとなる。合流点の反対側の道角に、建物と保護色関係で目立たないが「史蹟 ・・道」と刻まれた道標が建っているが、・・の部分がとても崩した文字で読めない。史蹟とあるから明治以降のものであろうと思うが、パソコンで物書きをする時代になったので益々楷書以外の文字は読めなくなってしまうだろうと思う。
   
たびたび自動車が通る261号線を10分ほど歩くと、右に「塩滑地蔵菩薩」石柱があり奥の方に小さなお堂が見える。
   
近寄ると、お堂の右側にはベンチがそれも2つも用意され、お堂の前のカゴの中の皿には白い塩が沢山入って置かれていた。「身体の悪い場所に塩を塗ると治る」という言い伝えがあるといい、ご近所の方が大勢お参りに来ているのであろうか。
   
地蔵から約150m歩くと、茨城県と栃木県の県境になるはずであるが、標識が見当たらないのでいつの間にか越してしまった。そして前方にはひときは大きな木が見えてくるのが、野木神社参道の印である。
栃木県に入りここからは野木宿に向かって歩くことになる。時は9時9分を示していた。
   
                 
                 
中田宿 野木宿へ
                   
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