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この区間は、2003.11.2に古河宿に引き続いて歩いた。 野木宿は古河宿からわずか2.8kmという近い位置にある人口527人の小さな宿で、 通行人が多くなると自力で宿の業務遂行ができないため、 近郷23の村が助郷として割り当てられていた。 現在は宿場の面影を残しているものはなかった。 |
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9時9分、前方にこんもりとした大きな木が見えてくる。 |
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近づくと、ここは野木神社の参道入口であるが神社までは約400mあり、 旅を急ぐ身につき参拝は遠慮させていただいた。 野木神社は、1,600年前の仁徳天皇の時代に建てられ、 1.200年前の坂上田村麻呂の東征のとき現在地に移したといわれている。 現在の神殿は、文正2年(1819年)古河藩主土井利厚により再建されたもの。 境内には、坂上田村麻呂が凱旋したときに、植えられたという公孫樹(大いちょう)が植えられている。 |
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神社を過ぎた200m先で261号線は、野木信号交差点で右から来る国道4号線と合流する。 |
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交差点を過ぎたあたりから野木宿へ入ることになるが、歩道はよく整備され、 とてもきれいな家並みが続く通りとなる。 あまりにきれいに整備されていて宿の名残はどうも残っていそうもない。 それはそれとして真っ青な空の下このきれいな歩道を缶ビールの蓋を開けて、 ぐい飲みしながら快調な足取りで前進した。 |
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しばらく歩くと左の歩道の塀の脇に野木宿説明看板が立っている。これによると、 野木村は野木神社の周りに住居したのが始まりで、 その後街道筋へ移動して野木宿として成立した。 天保14年(1843)の宿の規模は人口527人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠2軒という、 小さな宿場町であった。 そのため通行量が増えるその負担に耐えられなくなり、 宿人馬を助ける助郷の23の村々が野木宿に割り当てられて、任を果たしていたという。 この看板辺に本陣があったということであるが、全くその形跡を知ることができない。 さらに道の反対側に脇本陣があったということで、右往左往して隈なく探したが全くわからなかった。 せめて立札でもおいてくれたら親切なんだがと、無駄な時間を悔やんだ。 |
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その先の満願寺の前には十九夜の石塔がある。 野木町を含めこの辺は十九夜信仰が盛んであったようで、これらも十九夜塔を良く見かけることになる。 なお十九夜信仰の謂れについては、前々の中田宿記載してあります。 |
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さらに進んで行くと、左手の塀のところに「是より太平山」道標がある。 多分左の横道をさしているのだろうと思う。 |
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宿に入るとり1kmほどで宿は終わり、道は右にゆるくカーブする。 そのカーブの手前の左側の小さな空地に、 観音堂とその左に馬頭観世音、右に十九夜供養塔が並んでいる。 ここでも手入れが行き届いていて信仰心の篤い土地柄なのだろうと、容易に想像できるほどである。 |
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カーブを過ぎると、真っ直ぐな道となり、道の両側は急に視界の開けた景色となる。 気持ちも開け壮快な足取りとなった。 |
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その足取りで単調な国道4号線にをただひたすら北に向かって歩いて行った。 松原信号や野木町松原の横断歩道橋までもが、何か物珍しくなるほど変化に乏しい時間であった。 少し歩くとJR東北本線野木駅への案内看板がたっている。4号線はJR東北本線と平行に走っている。 |
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宿外れから約2.5km歩いた右側の下西公民館敷地の奥に、小さな観音堂がある。 そして道路側の建屋の脇に十九夜、十九夜塔、廿三夜塔と刻まれた三つの石塔が並んでいる。 左側面にはそれぞれ石塔に「下野国都智郡友沼村 女人三十五人」、 「寛永元年戊申十一月吉日」、「文政二巳卯歳三月吉祥日」と刻まれている。 多分代々のこの村の女人講で建てられたものであろう。 |
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さらに国道4号線を500mほど歩いた左側に、応永2年(1395)創建の法音寺(左)の山門(中左)がある。 中に入るととても広い境内には立派な本堂(中)とともに、芭蕉句碑(中右)、 十九夜塔と廿三夜塚(右)などいろいろ置かれている。 芭蕉句碑「道ばたのむくげは馬に喰れけり」は安永9年(1780)に建てられたもので、 奥の細道に旅たつ5年前の芭蕉が41才の貞享元年(1684)に 小夜の中山(静岡県掛川市日坂)を超えるときに馬上で詠んだものという。 |
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山門を出ると斜め前の交差点の角に、友沼八幡神社がある。 徳川将軍の日光参詣の工程は岩槻、古河、宇都宮に各1泊する3泊4日が恒例となっていて 、それにともない昼食・休憩の宿や神社なども決まっていた。 八幡神社は2泊目の古河城を出発して最初に休憩した場所で、 境内には西運庵と呼ばれる休所が準備されていた。 |
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神社を後にして直線的な4号線を500mほど歩くと、小山市との境界看板が見えてくる。 ここから、間々田宿へ向かうことになる。時は10時43分を示していた。 |
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