間々田宿から小山宿へ
 (宿間距離 6.7km)
                    
この区間は、2003.11.2野木宿に引く続いて歩いた。
間々田の名前は、古くは真々田、儘田とも書かれたともいう。
間々田宿は江戸および日光から11番目の宿場にあたり、
距離的にも18里(約72km)の中間点に位置していた。
間々田宿は元和4年(1618)に宿駅となり、奥州大名の参勤交代に利用され、
また壬生通りの日光参詣する大名や旗本にも利用される、位置的に重要な宿場であった。
恩川の乙女河岸は江戸時代米の積出などの物資輸送の重要な役割を果たしていた。
天保14年(1843)の記録では、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒とある。
街道の名物として、鎌倉時代のの伝統を引き継ぐいだ間々田紐があり、
帯紐や羽織紐など民芸品として珍重されている。

10時43分、小山市に入る。ここから間々田宿に向かうことになる。
  
マップによるとこの辺に網戸渡船場道と馬頭観音碑があるという。あちこち探しまわったが見つからず、たまたま4,5人でおしゃべりしていた男女に聞いたが、全く回答になっていない。あきらめて先に進んだところ工事中の看板の陰にひっそりとたたずんであった。網戸渡船場道は旧日光街道左手に平行して流れている恩川の乙女河岸、網戸方面に向かう道で、文化10年(1813)の道標を兼ねた馬頭観世音の台座には、「これより左 あじと とちき さのみち」と記されている。
  
これから国道4号線を北に向かって歩いて行く。
  
200mほど歩いた近辺に、乙女一里塚跡があることになている。しかしどこを探しても見当たらず、それらしき木が一本あるだけ。何の標識もないが、これが一里塚の跡と自分勝手に決めて慰めた。旧日光街道はここからと西側に4号線と少し離れて平行に通っていたが、現在は畑や宅地になっているためこのまま4号線を歩き続ける。
   
300mほど歩くと、左側の奥に若宮(寒沢)八幡宮鳥居が見える。鳥居をくぐると正面に本堂、左手に宝永6年(1709)年に鋳造された、銅製の大日如来像があり市の指定文化財となっている。江戸湯島の渡部久兵衛が施主となり、父母の供養のため生地である寒沢の地に安置したと伝えられている。とても品のある如来像で、戸外に安置されていることから「濡れ仏様」と呼ばれ、親しまれている。
   
乙女一里塚から約1.2kmのところで、再度旧日光街道と4号線と合流し、その地点の右側に仏光寺がある。門柱の右には、「十九夜 女人講中」(左)と「十九夜供養 講中」と刻まれた石塔が並んで建っている。 
   
その先の左側には、乙女八幡宮鳥居がある。参道は長くしばらく歩くと2番目の鳥居があり、さらに前方に本殿の姿が見える。時間の関係で拝殿を割愛させていただき、遠くからデジカメでパチリ。鳥居は神社の参道に建てられて神域や境内の入口を示すもので、2番目の鳥居は元禄16年(1703)に建立された島木をもつ明神形式の貴重な石造鳥居(市指定文化財)である。なお八幡宮は鎌倉時代に創祀されたもので、乙女河岸で活動する商人から崇敬されていたという。
   
鳥居から150mほど行くと小山市乙女の歩道橋があり、ここから左折する道が県道50号線で1km行くと恩川にかかる乙女大橋がある。江戸時代この大橋付近に乙女河岸があり、河川交通の要衝として政治、経済、文化面において重要な役割を果たしていたところ。ところでこの辺の国道4号線地域は乙女という心ときめく地名がついている。こういう地名に住んでいる女性は、さぞかし素敵な女性ばかりかと心ときめかして、道々キョロキョロして歩いたが何故か1人の女性にも出会わなかった。女性たちもさるものですね。
   
交差点を過ぎると黒塀に白壁土蔵が、青空に鮮やかに映えて現れた。やはりこういう場面に出会うとうれしくなってしまう。
    
数分歩くと間々田駅への案内板。ここから右折すると県道103号線で約250m先に、JR東北本線間々田駅がある。
   
さらに4号線を直進し、消防署の前を通って約400mほど行った右側の民家塀の脇に大きな木が一本立っている。ここは日光街道中間地点「逢の榎(えのき)」と呼ばれているところである。間々田宿は江戸および日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里(約72km)の中間地点に位置していたので、「間の宿」と呼ばれていた。間々田宿の入口にあった榎は「間(あい)の榎」と呼ばれ、旅人の目印となった。それがいつの頃からか「逢の榎」と呼ばれるようになり、縁結びの木として信仰を集め、祖師堂も建てられお参りする男女も多かったと伝えられている。私もあやかりたい!ダメですか?
   
逢の榎からは間々田宿に入ることになり、約150m行った左側に龍昌寺門柱がある。中に入っていくと朱色の山門と、そしてカラフルな不動堂と威風堂々の本堂があるるが、一見派手な寺院と言う印象が今でも残っている。慶安4年(1651)に徳川家康の遺骸を日光廟に葬送の途中で、この寺に遺骸安置所が設けられた、といういわれを持つ。その由来碑が建てられ今に伝えられいるという。
    
店の名前も乙女屋とある。早い者勝ちでつけたのであろうか。
   
間々田信号の交差点から見ると4号線はどこまでも真っ直ぐで、宿の中心であった通りでもある。
   
交差点から100mほどの左側には、脇j本陣、そして数軒隣に本陣跡があるという。しかしどこを探してもその標識が見当たらなったが、確固たる根拠でこの空地が本陣跡であると特定した。ただその根拠となったものを今思い出せなく、説明できないのであるが・・・・・。
   
さらに400mほど歩くと左側に、とてもユニークな山門の浄光院がある。現在の本堂は安永4年(1775)に再興されたもので、境内には観音堂や江戸時代の石造仏などがある。
   
その先で4号線は右へ緩やかなカーブとなる。旧日光街道は真っ直ぐな道で数十mほど4号線から離れてしまうが、現在は宅地などになり道がないのでそのまま4号線を歩くことになる。
   
しばらく行くと、右手に大きな白壁の建物が現れるが、これは天理教都賀大教会である。
    
ふと歩道の左側を見ると、自然が今を盛りと色とりどりに目を楽しませてくれていた。ただひたすら前にアタフタと歩くことばかりで、自然の豊かさを享受できないでいる日ごろの自分を恥じながらデジカメでパチリ。
   
しばらく行くと、間々田郵便局の前の4号線の左側に間々田一里塚があるという。いくら探してもその標識がなかったが、前であればこのラーメン屋の敷地しかないのでここが一里塚跡と断定した。なお今の場合国道4号線の左側ということは、旧日光街道の右側にあたることを、念のため。
   
旧日光街道は、4号線と別れてから約900mの千駄塚信号交差点で再度合流する。そこから200mほどの左側にちょっと傾いて千駄塚古墳標識が立っている。横道の奥に見えるこんもりとした森が千駄塚古墳で頂上には浅間神社を祀っている。
   
単調な道を約600m歩くと県道33号線との栗宮南交差点となる。この辺から目では見ることができないが、右手の方にJR東北線とともにJR東北新幹線も一緒に走りはじめる。さらに進むと、前方に「左4号線黒磯・宇都宮 直進265号線小山市街」標識が現れる。旧日光街道は分岐点の約400m手前から4号線と別れ左側を直進し、265号線と平行して進むことになる。ただし現在は宅地などになり道がないので、そのまま4号線そして265号線と進む。
   
4号線と別れ、約800m行ったところで旧日光街道は265号線と合流して進む。しばらく歩くと直進小山市街の標識と、前方に国道50号線の横断道路が見えてくる。
50号線を越すと、小山市街となり小山宿に向かうことになる。時は13時11分。
               
野木宿 小山宿へ
                   
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