小山宿から新田宿へ
(宿間距離 5.1km)
      
この区間は、2003.11.2 間々田宿に引き続いて歩いた。
旧日光街道は、県道265号線→住宅地一般道、の経路となる。
小山宿は元和3年(1617)宿として成立し、北関東の交通の中心として発展した。
宿内の長さは南北約1.4kmで残らず町並みを形成していた。
天保14年(1843)の記録では、人口1392人、本陣1、脇本陣2、旅籠74軒。
また小山城の城下町でもあった。
小山城は平将門の乱を鎮めたいわれる藤原秀郷を祖とする、
小山政光が久安4年(1148)に築城したのが始まりで、
その後11代義政が城内に祀られていた祇園神社から名をとって「祇園城」と改名した。
その後小田原の北条氏の支配下に入ったが、
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅びるとともに、
11代政種も城を追われ約450年続いた小山一族の幕は閉じられ、祇園城も廃城となった。

国道50号線のガードをくぐり、青空をバックにした真っ直ぐな県道265号線歩き続けた。
   
マップではガード下から約800m来たところの交差点手前の右側に、小山宿一里塚があることになっているが、標識が見当たらずわからない。どうもこの酒店あたりのような気がするが・・・・。
    
寄り道して交差点を左折し少し行くと、右に宝亀3年(772)弓削道鏡による開山といわれる持宝寺がある。徳川8代将軍吉宗が日光参詣の折この寺で休息をした。また市指定文化財で市内唯一の江戸時代の梵鐘が保存されている。
    
さらに進んで十字路を右折すると、左に小山の総鎮守とされて来た須賀神社がある。7月20日に行われる須賀神社祇園祭では関東一の大御輿のほか、大小の御輿60基が市内を練り歩くという大規模な祭りとして知られている。境内には御神木と七ツ石がある。御神木は樅ノ木で樹齢800年を経るもの。七つ石は夜泣石とも呼ばれもとは小山城内にあった七つの庭石が、落城したことによって結城の城内に接収されが、夜中になると哀れげにないたという。そこで結城の城主は小山城の鎮守の当神社の境内に運ばせたら、それから石は泣かなくなっという伝説がある。
    
元の交差点に戻り旧日光街道の265号線を歩いた。この通りは「小山宿通り」と看板があるので、昔の宿の中心地なのであろうか。
    
400mほど歩くと右側に常光寺がある。ここにある市指定文化財青銅製阿弥陀如来像の台座には、戊辰戦争時に大鳥圭介軍の流れ弾があったと伝えれれる痕があるとのことであるが、どうしてもみつけることができなかった。
   
道の反対側には、明治天皇行在所跡碑があり、奥の方に見える唐破風のある風格ある建物は小山脇本陣跡の玄関である。
   
その100m先の麩屋という魚屋さんの隣の駐車場が本陣跡だといわれている。
   
道を挟んで反対側にある、常陽銀行支店が問屋跡ということである。
   
JR小山駅にちょっと立ち寄ることにして、常陽銀行の先できれいにブロック舗装された道を右折した。しばらく歩いて左折すると駅手前に人の山。何事かと掻き分け中に入ると可愛い女性(左)が一生懸命ドラムをたたいている姿にうっとり、パッチリ。
   
小山駅を一目見て左折し、小倉総本舗の交差点で265号線に復帰した。道の反対側に狭い敷地ぎりぎりに建てられているのっぽビルが目に入った。このあたりも土地の確保に苦労しているのであろうか。
   
265号線を100mほど歩くと、左に元須賀神社の鳥居がある。ここは先に訪ねた須賀神社の元の位置ともいわれている神社である。
   
265号線は左手の国道4号線と平行に走っていて、祇園城と表示されている国指定史跡の小山城跡天翁院を見ることできる。元須賀神社を出て県道264号線との丁字路の次の交差点で、天翁院を訪ねるために左折した。するとすぐ寺院のような立派な門構えがあるが表札を見たら明らかに個人の家で、さぞかし由緒ある家なのであろう。その先に創建が宝永年間(1704〜11)といわれる寶性寺があり、その先の交差点を右折する。
    
右折して400mほど行った左に、小山城主の小山一族の廟所である天翁院がある。境内はとても広くきれいに整備されいて、自然の多い公園風といった感じであった。
   
再度265号線に戻り歩くとすぐ左に、嘉祥2年(約1040年前)に創建された興法寺がある。本堂は何度も焼失し現在のものは明治18年に再建されたもの。境内には十三層塔があり、この塔はかって数百年間東京浅草の浅草寺境内に安置されていたものとのこと。それが古河市須藤家の大庭園に移され、さらに平成2年にこの境内に安置されるようになったという。浅草寺はよくしっているので、なにか懐かしい人にあったような気分になってしまった。
    
旧日光街道はこの少し先で265号線の左側に数十mそれるが、現在は道がないのでこのまま265号線を
北に進んで行くことになる。約1km行きJR両毛線を横断し、さらに600mほどの交差点付近で旧日光街道と再度合流する。この交差点の先のアパートと駐車場の間の小道を入ったところに天翁院寮跡があり、石造が4つ並んでいる。
向かって一番右の石像は、昔喜沢の追分にあったといわれる享保3年
(1718)地蔵尊(道標)で、側面には「右へ奥州海道左へ日光海道」と刻まれている。ちなみに左の2つは十九夜塔である。
   
北へ約450m行ったところの信号のある交差点で,左に見える小道は日枝神社の参道で樹齢400年以上、樹高30数mの大きなケヤキが3本(参道左に2本、右に1本)残っている。
   
やがて道は喜沢東信号のある5差路に出る。ここは壬生通りとの分岐点で正面青い看板の下の三角地帯に喜沢追分の道標がある。左へ行く道が壬生通りの18号線で、直進するのが265号線、旧日光街道は265号線と別れ右側の横断歩道の手前で停まっている車のところから斜め右に入る道となる。
 
壬生通り:喜沢追分から飯塚宿、壬生宿を通り、楡木宿で日光例幣使街道と交流する道で、日光西街道とも呼ばれていた。宇都宮を経由する街道よりも距離が短かったので、日光へ行く人にも大いに利用されたという。
    
三角地帯に天明5年(1785)の道標を兼ねた供養塔とがあるというが、刻まれた文字が風化してよく見えないが写真左の石碑だと思う。中は明治27年の馬頭観世音碑、右は日清日露日支出征馬碑となっている。
   
5差路を横断し265号線と分かれて右の細い道に入る。車など走らない緑の中のどかな旧日光街道を700mほど歩いて行くと、左前方に林が見えてくる。
   
この林の手前にある、小さな盛り土されたようなところが、標識は出ていないが江戸から数えて21番目の喜沢一里塚である。
  
400mほど行くと旧日光街道はJR東北新幹線とJR東北本線に遮られてしまうので線路沿いに進み、そのまま800mほど行くと道は三叉路となり旧日光街道と再度合流する。
旧日光街道は橋本整骨院看板の左側の道で、ここから新田宿へ向かうことになる。時は15時36分。
          
間々田宿 新田宿へ
                   
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