近江国草津市
草津宿
から大津宿へ
江戸日本橋から草津宿まで 466.8km 、草津宿〜大津宿間 14.3km
                          
この区間は2002.2.23に石部宿に引き続いて歩いた。
天候は晴れで風もなくよかった。
草津宿通りは現在はアーケード付商店となっていて、53次では珍しいのではないかと思う。
ついでにその商店街のスーパーでおにぎりを買ったが、
道中コンビではよく買うがスーパーではあまりなく、味比べをしてみた。
もうすぐ京都だと思うとさすがに、気持ちもはやるものがあった。
草津市草津町草津市野路町大津市

草津宿:草津宿は平安時代からあり、東海道と東山道との分岐点として、次第に交通の要衝として重要な位置を占めるようになった。その後徳川家康の街道整備政策で宿場が整備されて発展していった草津は、街道を中心に形成された典型的な町並みと言える。
 本陣:2、脇本陣:2、旅籠:72、人口:2,351人

   
 栗東から草津川の北東側沿いに歩くと、左側に枯れたような樹とその脇に石柱と説明板(写真)がある。石柱には「わが町のシンボル イロハもみじ」と刻まれていて、説明板には推定樹齢のもみじの樹で樹高9m、樹幹周囲200cmとある。これからするとこの樹はもみじの樹で、またこの辺が栗東市と草津市の境界ということであろう。
    
 道は下り坂で、遠くの歩道橋に下に見えるのは国道1号線(写真)ではないかと思う、久しぶりに1号線に出会ったような気がして感激のようなものがあった。
    
 さらに道は分岐し、右手は1号線へ出る道で、左手の旧東海道歩いてしばらく行くと左に曲がって草津川を渡ると、土手は立派なサイクリングロード(写真)になっていた。宿入口となる常夜灯の脇を通りそのまま道なりにゆるい坂を下り、500mほど行くと丁字路にぶつかる。
   
 丁字路右角に常夜灯の追分道標(写真)があり、ここが東海道と中山道の分岐点であることを示している。草津は古くから東海道と中山道を結ぶ宿として重要な役割を果たしていて、この常夜灯も、旅人が道に迷わないようにと安全を祈って、1816(文化13)年に江戸、大阪をはじめ全国の飛脚問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは4.45mある。
   
 丁字路を右に行くと、ずい道(トンネル)(写真)をくぐって中山道となる。このずい道の上を草津川が流れている。草津川は川底が周囲の地盤より高い天井川で、昔は川を越えて中山道へ行っていたが、1886(明治19)年に初めて現在地にトンネル(当時はレンガ造のアーチ型)ができて通行が容易になった。
   
 旧東海道は左に曲がり、公民館前には草津歴史街道の石碑と案内板(写真)があってわかりやすく説明している。
   
 道路の反対側には、草津宿本陣(写真左)があり、表門からは玄関と右側に番所(写真右)が見える。建物は参勤交代制が確立した1635(寛永12)年に設置(田中七左衛門が材木屋と兼業で経営)され、平成8年に改修されたが当時とほとんど変わることなく、江戸時代の本陣の実態をよく伝えていて国指定史跡となっている。敷地は4,700u、建物は建坪468坪、部屋数は39室268畳で瓦葺の平屋である。内部は有料で開放されていて貴重な資料も多数残されている。この本陣には多数の有名人が宿泊していて忠臣蔵の浅野内匠頭長矩吉良上野介、新撰組の土方歳三藤堂平助など、シーボルト皇女和宮明治天皇など多士済々である。
    
 ここは宿跡がそのままアーケード付本四商店街通りになっているようなで、入るとすぐ左側に市立草津宿街道交流館(写真)がある。中には街道の資料や体験コーナー、宿場模型などいろいろ楽しませてくれるものが多い。またここでは情報通信「街道文化」を発行していて、街道に関するいろいろな専門的な資料、情報を特集で紹介している。紙はA4版の4ページで、毎年4月、7月、12月の3回発行しているようである。
 余談であるが、草津宿の「旅籠屋掟書」には、客引きは1軒から1人、宿場端までに限る、となどというように記されているとのことで、相当激しい客引きが展開されていたことが伺えるが、いつの世でも同じことであろうか

   
 このアーケード商店街のはずれの左側に、草津政所跡(写真)がある。「山吹の花は咲けども・・・」の歌で有名な武将大田道潅の太田家は、江戸幕府の命を受け草津問屋場を預かり、また隠し目付けを勤めるなど、当宿場の権限をまかされていたので、政所と呼ばれていた。現在は大田酒造という造り酒屋となっている
   
 アーケード商店街を出て伯母川を渡ると、すぐ右側に立木神社(写真)がある。神社の創建は767(神護景雲元年)年で、境内には1680(延宝8)年と刻印された草津宿最古の石造りの道標や栗の化石と伝えられている活人石、樹齢400年と言われる神木ウラジロカシなど多数の巨木が残っている。
   
 神社からは南西へ一直線の道(写真)となり、閑静な住宅街を歩いて行く。この道は目では見ることができないが、右のJR草津線と左の1号線に挟まれた道となっている。約1kmほど歩くと一号線に出るのでまっすぐ斜めに横断して細い道に入り、少し行くとまた大きな道に出る。ここには横断歩道がないので右に迂回して信号で横断して、元の位置に戻るのであるが、さて旧東海道の入口はどこか迷ってしまう。そこで近くにコンビでビールとおにぎりを買って道を聞いたら、店を出てすぐ右にあるという。よく旅行者に聞かれるということで、慣れたものであった。
   
 入口から南西へ500mほど歩くと、右に野路萩の玉川の立て札がある。ここは平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として賑わったところで、萩が全面に植えられていたという。そして野路の玉川とはここに豊かに湧き出ていた清水で、宿場が野路から草津に移るとともに泉も涸れて風情が一変したと言われている。現在は地元の人たちにより野路玉川の小さな公園(写真)として整備され、水量こそ減ったものの泉から昔と変わらぬ清水が湧き出ている。
   
 玉川から200mほど歩くと、右手に弁天池と弁天島(写真)があらわれる。その横を道なりに歩いて約1kmほど行くと草津市と大津市の市境となり大津宿へ入る。京都三条大橋はもうすぐ目の前である。
    
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