江戸中央区 日本橋から品川宿へ
       日本橋起点標識品川宿まで 8.5km
                               
2002年1月13日に江戸日本橋を出発して、まさに旧東海道492km歩破のスタートを切った。
 ところが、あまりにも張り切り過ぎてかデジカメで撮ったフイルムを何故か紛失してしまい
再度日本橋から出発し直しして撮りなおさざるを得なかったので、
この区間だけは2倍歩いたことになる間抜けたスタートであった。
日本橋→京橋→銀座→新橋→芝→三田品川

起点:江戸日本橋
 
(国指定重要文化財)(中央区日本橋一丁目、日本橋室町一丁目)
 ここ日本橋は京都・三条大橋までの第一歩を記す東海道の起点であるだけでなく奥州街道、
日光街道、中仙道、甲州街道の五街道起点ともなっている。

写真で
日本橋の看板がかかっているのは高速道路で、東海道の日本橋はその下にある。 
   
 日本橋の中央には五街道の起点標識である道路元標が埋められているが、橋の北側西たもとにはその複製標識(写真)がある。 
この道路元標はS47年にプレートに変更され、文字は当時の首相の佐藤栄作の筆によるもの。
よく道路標識で「東京まで53km」とあるのは、ここまでの距離を示している。

    
 橋の南側西たもとには日本橋由来碑(写真、昭和11年建)がある。上部には広重の絵があり、下部に由来が記載されていて、「慶長8年(1603)に橋が架けられ、通称日本橋を呼ばれていたのが遂に正式名となった。翌年諸街道に一里塚を築いたとき日本橋を起点とした。」「元和4年(1618)に改架されたが、その時の橋の大きさは、長さ37間(67M)、幅4間(7M)で、その後19回改架された」などとある。現在の橋は明治44年に東京市により石造二連アーチの道路橋として造られたもの。
   
 橋の北側東たもとには魚川岸の碑(写真昭和29年建)があり、観音像の台座には碑文が刻まれていて、「摂津国の佃・大和両村の漁師30余人が徳川家康とともに現在の佃に移住し漁業を営み、この地が魚介類の市場となった。以降関東大震災以降市場が築地に移るまで江戸の一代問屋街とて栄えた。」とある。 
  
 また橋の南側東たもとにある交番のある所は晒し場跡(写真)で、姦通者、女犯の僧、心中未遂者などを処刑して晒した場所にあたるという。
   
日本橋から品川宿
この間の旧東海道は現東海道(国道15号線)と同一経路で、まさに日本の街のど真ん中を歩くことになる。午後零時過ぎに日本橋をスタートしたが、この日は太陽がちらちらの曇り空で歩くにはよい日和であった。
 ビルの谷間をぶらぶらして歩いていると、八重洲通りとの交差点の津村ビル前に突然巨大な都会のキリン(写真、日本橋3-4)が現れる。びっくりしたままなおも歩くと、やがて日本橋から1km地点の京橋にたどりつく。
 旧京橋(京橋3-5)は江戸時代から日本橋とともに有名な橋であったが、昭和34年(1959)の京橋川の埋め立てで撤去されたが、名残を留めるものとして3本の親柱が残っていている。
   
 橋の北詰東側と南詰西側に残る親柱は明治8年(1875)当時の石造の橋のもので、詩人佐々木支陰の筆によって、京橋(写真左)きょうはし(写真中)とそれぞれ橋の名が彫られている。
 南詰東側の親柱は大正11年
(1922)にかけられた石およびコンクリート造のもので照明設備を備えたもの(写真右)
 さらにそのちょっと先には煉瓦銀座之碑(昭和31年建)があり、明治5年の大火災で銀座が全焼したことに鑑み、銀座全域を不燃性建築の煉瓦造2階建アーケード様式建築を作り煉瓦通りと称されたこと、また銀座通り商店街形成のもととなったことが記されている。
   
 反対側歩道には江戸歌舞伎発祥之地碑(写真、昭和31年建)があり、寛永元年(1624)に元祖猿若中村勘三郎がこの地に猿若座に芝居櫓を上げたのが江戸歌舞伎の元祖であるので、この地を江戸歌舞伎発祥の地と記念する、とある。
京橋から銀座への歩行者天国を歩くと、ティファニーなど多数の海外有名ブランドの店々が嫌でも目に入る。
   
 西側歩道に銀座の柳由来碑(写真左)があり、「銀座の柳は明治20年頃に植えられて大正9年頃に撤去し、昭和6年に復活した」とある。これが「昔恋しい銀座の柳〜」となる。 昭和43年に柳の樹齢劣化で他へ移植したが、その後「銀座通り」に再度植えられた、ということである。 東側歩道には銀座発祥の碑(写真右)がある。
   
 また銀座2丁目の銀座エンバ前にくると、すごく巨大な豹の絵看板(写真)があったが、よく見たら猫かと思った。 銀座3丁目の松屋の前は日本橋から1.5km地点で、少し行くと銀座4丁目交差点に出る。
現在の銀座は8丁目まであるが昔は4丁目までとのことであるので、この交差点で古い銀座は終わりということになる。 ここを横断すると銀座5丁目の日本一地価が高いという、
鳩居堂店がある。
   
 そのまま西側歩道を行くと、角地に銀座博品館がありここを過ぎると、銀座にさよならして新橋に入る。東側歩道に面して新橋跡の親柱(写真左)銀座柳の歌碑(写真右ある。
 新橋には旧新橋-横浜間鉄道創設起点跡があるはずであるが、只今汐止跡再開発の真っ盛りで、超高層ビル街に変身していてどこにあるか不明であった。この超高層ビルが完成した時は隣接する銀座がどのように変化させられるのかと、ふと思ってみた。
 また新橋駅東口前にあるという鉄道唱歌碑も見つけることができないまま、芝方面へ。

   
 地下に都営浅草線が走る道路をただただ歩いていくと、3.5km地点の右側歩道に面して芝大神宮(芝大門1-12)がある。ここは寛弘二年(1005)鎮座の古社で生姜祭や、め組の喧嘩の事件などで有名ということ。
 新年の参拝をして三田へ。

   
 左側歩道に面した三菱自動車ビル敷地の一角に、ビル看板と並んで西郷・勝海舟会見地の碑(写真)がある。
   
 日本橋から5.0km地点のJR田町駅前を通過して、札の辻交差点を過ぎると左側歩道に面した都ホテル敷地の一角に、元和9年に江戸のこの地で50余人が処刑されたというキリシタン殉難碑(写真、三田3-7-8)がある。
   
 しばらく歩いて6km地点の左側歩道上に突如として大きな石垣の山が現れて通行を邪魔するが、これが江戸の南玄関口として賑わった高輪の大木戸跡(写真、高輪3-9)である。この忙しい時代に歩行の障害となるこの遺跡をよくぞ残したものと感心した。 この大木戸は寛永7年(1710)に芝口門にたてられたのが起源で、享保9年(1724)にこの地に移されたという。
   
 そのまま200mくらい歩くと信号のある丁字路に出会い、それを右の横道に100mくらい入るとお馴染みの泉岳寺(写真、高輪2-11-1)にたどりつく。 ここは皆さんがよくご存知のお寺であり詳細は割愛するが、墓所がきれいに整備されていて数年前きた時と随分様子が変わっていた。相変わらず大勢の参拝者と線香がもうもうと立ち込めていた。
再び旧東海道に戻り歩くと、JR品川駅前にたどりつくがここには品川駅創業記念碑があるということであったが見落としてしまった。 そこから600mほど行ったところで、いよいよ国道15号線を別かれて旧東海道に入る分岐点に到達する。この分岐点から左の八ツ山橋の方へ入るのであるが、道が3つに分かれていてよく間違えると聞いていたが、やはり私も間違えてしまった。理由は入り口の八橋山コミュニティー道路が工事中で状況が様変わりしていたからとしておきたい。
 旧東海道へ入ってすぐ京品急行線の踏切があり、ここが日本橋から8km地点となる。

   
 品川宿は日本橋から約8kmということであるから、ここから待望の品川宿(写真、合成してある)が始まるということになる。
 ...
 今日は初日で慣れていない上に、銀座などをブラブラしたせいもあって日本橋からここまで4時間もかかってしまった。このままでは予定通りの工期で京都へつけないので、次回から江戸時代の女性並みにスピードアップしたい。
 ちなみに江戸時代の一日で歩く平均距離は、女 30km、 男 40km といわれている。
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