武蔵国品川区
品川宿
から川崎宿へ
江戸日本橋から川崎宿まで17.6km,  品川宿〜川崎宿間9.8km
             
2002.2.9午前京急品川駅を出発、前回入口を間違えた八ツ山橋分岐点へ再度歩いた。
  予報では快晴とのことで足元も軽く心も弾んだが、午後の1時過ぎるころからにわかに
     曇ってきて雨もちらちら降ってきて寒さも厳しく気象庁を恨んだ。
なお東京国道工事事務所から入手した、ウオーキングマップ「東海道」はデータも豊富で、
何より公衆トイレの位置が丁寧に記載されていて大変役に立ち感謝した。

品川宿大井→鎌田→六郷川崎宿

品川宿:日本橋を出発して一番目の宿で、日本橋から2里(約8km)の所にある。約2kmにわたる宿場町として東海道ではもっとも賑わった宿の1つと言われている。商店は1600軒。
  本陣:1、脇本陣:2、旅籠:93、人口:6,890人
 前回品川宿への進入路を間違えたので、再度手前の京急品川駅から歩いた。
今度は十分予備知識を持っていたので、間違わずに真ん中の道を選択して進入した。
京急の踏切を渡ると、そこには旧東海道案内看板があり、昨年の400年祭の名残の旗が宿場町を飾っていた。
 宿に入るとすぐ左側の店の角に新しい問答河岸跡碑(写真:北品川1-22)がある。東海寺の開山沢庵和尚が3代将軍徳川家光を案内した際、家光は「海近くして東(遠)海寺とはこれいかに」と問い、沢庵がすかさず「大軍を率いても将(小)軍というがごとし」と答えたいう。
 なお旧東海道の碑や立札など真新しいものが多いが、昨年の400年祭のためにいろいろ整備して新たに作ったものが多いためとのこと。

  
 さらに数十m行ったところの左側に土蔵相模跡の立札(写真:北品川1-22-17)がある。土蔵相模旅籠は江戸時代から続いた品川でも有数な妓楼跡であったが、昭和33年の売防止法とともに姿を変え、現在はコンビニエンスストアーとなっている。、ここに働く飯盛り女は準公娼として認められていて有名な吉原に対抗する存在だったいう。また高杉晋作、伊藤博文などの幕末の志士たちが密議をした旅籠でもある。
   
 その日の品川宿は土曜日で天気もよく、車の通りも少なかったせいか、ひなびた商店街を歩いているという雰囲気でとても気持ちがいい。時にはリックを背負った夫婦のような二人、カメラを持った人、グループで散策している人達で、結構私と同じような仲間がいることを確認できてうれしかった。さらに進んでいくと右側に、日本橋より2里の標識(写真)がある。
   
 そのまま歩くとまた左の公園入口に大きな品川宿本陣跡標識(写真左)がある。
この跡地は
聖蹟公園(北品川2-7-21)になっている。ちなみに「聖蹟」冠した公園や場所は、明治天皇が奠都のため休息あるいは宿泊した所である。
   
 聖蹟公園を出るとすぐ交通量が激しい山手通りがあり、そこを横断して直進すると間もなく、目黒川にかかる品川橋となる。ここは綺麗に整備された橋で、夕方この橋の上から上流側を写真に撮ってみたが、やはり現物の方が感動的である。
   
 品川宿の通りの両側には、写真のような松の木が3ヶ所あるが、旧東海道が取りもつ縁で滋賀県甲賀郡土山町、浜松市、三島市からそれぞれ品川宿のシンボルとして品川区に寄付されたもので、写真は街道松の広場にある三島市から贈られた松。
   
 日本橋から9.5km地点を過ぎて南品川三丁目に入ると右側に品川寺(ホンセンジ)(南品川3-5-17)がある。この寺は品川区内でもっとも古い寺で大同年間(806〜810)に開創されたといわれる。またこの入口にある大きな地蔵(写真左)は街道を旅する人々の安全を祈って宝永5年(1708)に建てられたもので、東禅寺(台東区東浅草2-12)、太宗寺(新宿区新宿2-9)、真性寺(豊島区巣鴨3-21)、霊巌寺(江東区白河1-3)、永代寺(江東区富岡1-15、消滅)とともに、江戸の六地蔵といわれている。
またこの境内には樹齢600年の幹囲5.35m、樹高25mの
大イチョウ(写真右)がある。
   
 まっすぐな旧東海道をひなたぼっこをしながら歩いて行くと、日本橋から11.2km地点の立会川にかかる浜川橋(写真:東大井2-52)にくる。この橋は通称なみだ橋とも言われていて、この先にある鈴ヶ森刑場に引かれる罪人と縁者がこの橋の上で涙ながらに別れたということからきているという。歌舞伎や小説にもしばしば登場するほど有名な橋。
旧東海道と国道15号線との合流の三角地帯にある
鈴ヶ森刑場跡(南大井2-5-6)は慶安4年(1651)に開設された仕置場(刑場)で、明治4年まで存続していた。間口74m奥行16mの規模でここで処刑された者は天一坊、白井権八、白木屋お駒、八百屋お七などがいる。八百屋のお七は今なら未成年で少年法で保護され処刑などとはありえなかったはずで、そうでなくともこの男社会で虐げられてやっと生きている女性を処罰するなどということは許されることであろうか。百歩譲って罪を問わなければならないとしても、特別な配慮があってしまるべきだと、義憤を感じて歩いた。それは現代の社会の女性でも同じである。今もなお「はりつけ石」や「火あぶり石」が残っている。
 刑場跡の写真は割愛させてもらった。

   
 鈴ヶ森刑場跡から数百m行くと右側に京急大森海岸駅があり、その前の歩道橋を渡ってすぐの所に磐井神社(大森北3-5)がある。この神社には鈴石(写真左:ころがすと鈴のような音が出て、森一帯に響き渡ったので、鈴ヶ森という地名ついたという謂れのある石)烏石(写真左:鳥の模様のある石)という珍しい石があると立札に書いてあったが、どの石か不明につきそれらしきものを写真に撮った。またこの神社には東海道を旅する人々に利用された磐井の井戸(写真右)があり、神社の前の歩道に残っていた。
   
 磐井神社から400m先の平和島交差点信号で国道15号線と別れて、左に入り1km歩くと再び国道15号線と合流する。京急電車を右に見ながら合流点から1.2km歩くと、右に梅屋敷公園(写真:鎌田3-25-6)がある。この公園は文政年間(1818〜1830)に和中散という薬で繁盛した山本家が梅の木を集めて作った庭園で、東海道を旅する人の休み茶屋を開いたという。ここを舞台にして幕末の高杉晋作らが横浜異人館焼討ち計画をした梅屋敷事件は有名。
   
 ここから600mほど行くと香川にかかる夫婦橋がある。この橋からふと右を向くと川の上にかかる京急鎌田駅のプラットフォーム(写真)があり、電車を待つ乗客の姿があった。土地のない都会ではのやりくりであろう。
   
 それから交通量の激しい国道を延々約2km歩くと東六郷三交差点があり、その左側に六郷神社(写真左:東六郷3-9)がある。この神社は天喜5年(1051)に源頼義、頼家父子が奥州討伐の時、この地の巨杉の源氏の白旗をかかげ戦勝を祈り、凱旋の帰途報恩のためこの神社を建てたのが起こり。この神社内には1600年頃にかけられた木造六郷橋の橋柱(写真右)がある。六郷橋は徳川家康により関ヶ原の戦いの直前の慶長5年(1600)に架けられたもので、長さ200m幅7mの大橋で、瀬田の唐橋、岡崎の矢矧橋とともに東海道3大橋といわれた。が貞享5年(1688)に洪水で流出後は架橋されず、渡し舟となった。
   
六郷神社前から国道に別れをつげて左側のいかにも旧東海道の細い道(写真)に入るが、700mほど歩くと国道と接する地点に達する。国道側の道路標識を見ると、川崎まで1km、横浜まで14kmとある。もう川崎は近い。そのまま旧道を真っ直ぐ行くと多摩川の土手にぶつかる。
   
 土手に来たら、六郷橋の下をくぐって反対側の橋詰西側に隣接したところに宮本台緑地(写真:仲六郷4-30)があり、ここに旧六郷橋の橋門と親柱が保存されている。大正14年開通の旧橋はタイドアーチ式の鉄橋で446m、幅16.4mであった。
   
 さらに護岸側には北野神社(写真左:仲六郷4-29-8)があり、木馬にまたがって願いごとをするが、この時の落馬止めが転じて「滑り止め」「痛み止め」に通じると受験生などに人気がある。またこの境内には六郷の渡し跡杭(写真右)がるが、文字は風化して殆ど見えない状態であった。
   
 旧街道は六郷橋の右側であるので、もとへ戻り階段を上がって橋を渡る。
河川敷は進行方向の左側は野球場、右側はゴルフ練習場として利用していた、しばらく橋の両側を眺めて橋を渡って反対がの岸に近づくと、
川崎市(神奈川県)と東京都の境界看板(写真があった。さてこれからいよいよ川崎宿に入ることになる。
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