伊勢国鈴鹿市庄野
庄野宿
から亀山宿へ
江戸日本橋から庄野宿まで400.9km、 庄野宿〜亀山宿 間7.8km
                         
この区間は、2002.12.8 石薬師宿に引き続く歩いた。
天候は小雨が降り続き寒さもこたえるほどの悪い状態であった。
ただこの庄野宿は、2002.1.4に初めて東海道江尻宿(清水市)から府中宿(静岡市)へ歩き、
そして勝手気ままに順不同に宿を歩き続けた53次の最後の宿であったので、
なんとなく気も引き締まり冷静に歩いたと思った。
旅、なんだからと日本橋からの順序にこだわることなく、
好きなように歩いてとても楽しい時間を過ごすことができた。
ハッピーであった。
鈴鹿市庄野町中富田町西富田町小田町亀山市へ

庄野宿:江戸から数えて45番目の宿。石薬師宿から庄野宿までは3km弱と、東海道で2番目に短い。
庄野宿は東海道で最も遅い1624(寛永元)年に設置されたが、石薬師宿と同じように宿の経営は苦しく当初は継立人馬は100人、100疋と定められていたものを、1758(宝暦8)年には30人、20疋と減らしてもらっている。
現在の庄野町は鈴鹿川左岸を走る国道1号線とJR関西本線に挟まれたひっそりした町で、町並みも古い建物の多く残されていて昔の面影を伝えてくれる。
 本陣1:、脇本陣1:、旅籠15:、人口:855人

   
 宮戸橋を渡り国道1号線と合流して、鈴鹿川を左に見ながら南西へ500mほど歩いて庄野町北信号から右折して狭い下り坂道を進んで、100m先の最初の十字路を左折すると庄野宿に入る。右角の空地に庄野宿案内板東海道庄野宿立柱(写真)があり、ここが宿入口であることを示している。
   
現在の庄野の町並み(写真)
   
先に進むと左に木造の庄野町資料館(写真)と玄関には「鈴鹿市指定建造物 旧小林住宅」の標識が立っている。ここはもと菜種油屋の建物で宿場関係資料や農機具・生活用品などが展示されている。
   
町並みには古い建物(写真左右)が多く昔日を偲ばせてくれる。
   
 少し歩くと右の建物に問屋場跡標識(写真)が掲示されている。問屋場は御伝馬所ともいい街道宿場のとって重要な役所であった。問屋2名、年寄4名、書記(帳付)と馬差が各4、5名が半数ずつ交替で詰めた。主な任務は公用書状の継立て、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村々への人馬の割当、賃銭、会計などがあった。
   
 その先へ行くと十字路があり、手前の右角に庄野集会所の建物があり、その前の右端には庄野本陣跡碑(写真右)、左端に距津市元標九里拾九町石標(写真左)がある。この石標は津市元標までの距離を表し、大正時代に道路元標が各市町村に設置された時のものである。
   
 さらに道を横断した右角には高札場跡標識(写真)が立っている。高札場は法度、掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で、庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに1ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためにあった。
   
しばらく歩いて1号線を横断する手前に十字路の角に東海道庄野宿標識(写真)がある。ここが西の宿入口辺りなのであろう。
   
その先で1号線に出会うので、横断して反対側に出て1号線と別れ西へ進んで行くと、右側に山の神碑(写真左、中)従是東神戸領石柱(写真左、右)がある。
   
 道を挟んだ反対側には、従是東神戸領石柱女人堤防碑(昭和33年建)(写真)がある。この辺りは鈴鹿川と支流安楽川の合流点で、たびたび氾濫して水害に苦しめられていた。農民たちの堤防修築の願いも叶うことなく、1829(文政2)年頃、苦しみに耐えられなくなった約200人の女性たちは打ち首を覚悟して暗夜を選んで工事を続け、6年の歳月をかけて堤防修築に成功した。女性たちは一旦処刑場に送られたが赦免の早馬で救われてという。女性はやはり偉大だと思う。それにしても昔の役人というのは、何もしないことが仕事だと思っていたのであろう。この時の無責任役人に対してどういう賞または罰を与えられたのか、ついそっちの方にも関心がいってしまう。
   
 女人堤防碑から鈴鹿川を左に見ながら約700m行くと左側に中富田町の川俣神社があり、その境内に中富田一里塚跡碑とその右に従是西亀山領石柱(写真左)が立っている。実は一里塚があるのは神社の裏側で、反対にまわって正面からの川俣神社(写真右)を写した。
   
 さらに川俣神社から700mほど行くと西富田町になりまた川俣神社の鳥居(写真左)があり、ここも道の反対側が神社正面(写真右)となっている。神社の作りもよく似ている。鈴鹿川に沿って同一名称の川俣神社が6社あり、鈴鹿川が股のように分流するか合流するところに建てられた神社である。
   
 西富田の川俣神社境内には、神戸城主織田信孝が愛飲した無上冷水井跡石柱(写真左)、北緯三四度五二分一四秒、東経一三六度三〇分二五秒の座標石柱(写真中)がある。何故座標石柱があるかは不明。また常夜燈のわきに「いずみはし」と刻まれた石碑(写真右)があるが、旧東海道の鈴鹿川にかかっていた橋の名残でもあるのだろか。
   
川俣神社の前を直進して鈴鹿川を横断するのが旧東海道であるが、現在は橋がないため左折して迂回し和泉橋(写真)を渡り、旧東海道に戻る。
   
旧東海道に戻り約600m行くと小田町となり右手の階段の上に、地福寺(写真)がある。その昔道心が修行したところで七堂伽藍があった寺であったが、1568(永禄11)年に織田信長の戦火にあい消失した。その後1677年に各誉上人の発願で観音堂が再建され、中には代々の亀山城藩主が帰依している阿弥陀如来が安置され、その両側には33体の観音菩薩が並んでいる。毘沙門堂には高さ1.6mの青銅製の毘沙門店が祀られている。地福寺から先に行くと道は1号線と合流し、すぐJR関西本線の踏切が現れる。
 踏切を越すと鈴鹿市から亀山市になり、降り続く雨の中を亀山宿へ向かうことになる。
                 
ホームページ
トップへ
東海道53次
トップへ
次の宿へ
ホーム