宇都宮宿から徳次郎宿へ
 宿間距離 9.8km)
           
この区間は、2003.11.3に 雀宮宿に引き続いて歩いた。
旧日光街道は 
国道4号線→市街地道路(蓬莱大黒通り)→国道119号線(100mほど)→市街地道路(清住町通り)→119号線
 の経路となる。
日光街道と奥州街道は江戸日本橋から同じ道であったが、
宇都宮市街の裁判所前付近で、経路が別れる。
また有名な杉並木の通りが、ここから始まる。
宇都宮宿は宇都宮城の城下町であるとともに、宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町、
そして日光街道・奥州街道の宿場町として発展してきた。
宿の規模は大きく、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で、人口は6356人であった。
ここには、静御前に由来する静桜の木があり、
持ち主のおばあさんによると兜のような珍しい花が咲くという。
宇都宮の地名:宇都宮とは二荒山(ふたあらやま)神社の別名で、それが地名に転化したといわれている。
           それは二荒山神社に次のような説があるため。
           ・服従しない者を征討する宮「うつ(討つ)の宮」
           ・日光から移したてまつった「うつしの宮」
           ・下野国「一ノ宮」の転化

一里信号まで来ると、右手に接近して来ていたJR東北本線と交わり踏切がある。
  
踏切を右手に見て通り越したところに、マップでは江戸から26番目の江曽島一里塚跡の印があるが、前から後から横から見てもどうしても見つからない。どうもこの辺ということで建物と塀の間の空地にある詳細不明の石碑を狙って何かの足しにと写真を撮った。
   
国道4号線を北へ歩いて川田入口交差点を過ぎ、一里信号から800mほどの左側にひときは目立つ大きなケヤキが立っている。樹齢はどこくらいなのであろうか。
   
まもなく遠くに西原交差点が見え、道は二つに分かれる。ここで4号線と別れ旧日光街道は直進する。
   
交差点を過ぎると、左側に富士重工業の工場があり、風力発電の真っ白い風車がとても印象的に見えてくる。環境にやさしいクリーンエネルギーの象徴として、素直な気持ちで拍手した。
   
富士重工業の工場を過ぎると眼鏡橋(写真左)で、道が平坦で遠くから気がつかなかったが、下を見るとJR日光線が走っている。
   
橋を渡り約300m行くと、不動前信号で道は2つに分かれ旧日光街道は左側の道となる。その交差点のところの横断歩道の正面に小さな不動堂がある。横断の信号待ちをしていたら、不動堂の前で母親と小さな女の子が長い間手を合わせてお祈りをしていた。横断して二人に近づくとようやくお祈りが終わり、今度は子供と一緒にニコニコしながら、丁寧に堂内の埃を払ったり、取り揃えたりし始めた。母親は若い上品な人で女の子も愛くるしい子供で、まさに二人とも幸せが一杯というおだやかな顔をしていた。夫の不倫を嘆いて不動堂にお祈りでもしているのかと、つい邪な考えしかおよばない自分を恥じてしまった。この二人にもっともっと幸せがあれと、心から祈った。不動堂には高さ約50cmの不動明が納められていて、江戸時代には江戸方面から来る旅人にとって宇都宮に入る目印となっていた。またこの付近の地名不動前の由来ともなっている。
 余談ですが私は女性はどんな人も幸せでなければならないという、強い信念をもって生きている。そのためいつも妻からは女性に甘すぎると、おこられてばかり。それでも女性にはやさしく、親切にしたい。

   
交差点から300mほど行った所で、東武鉄道宇都宮線のガードがあるが、この下に宇都宮宿の木戸があったということで、宿はここから始まる。ガードをくぐるとすぐ右の広場にに、宇都宮市有形文化財蒲生君平勅旌碑(旌(せい)と言う字は表彰すると言う意味もあるので、蒲生の偉功を称えるという碑)がある。林子平、高山彦九郎とともに「寛政の3奇人(ここでいう奇人とは、時代を先取りした人、程度の意味だと思う)と言われた蒲生君平は、明和5年(1768)にここ小幡1丁目で生まれた。その後祖先が戦国武将の蒲生氏郷であることを知り「蒲生」となるようになった。尊王家・学者として知られ、天皇陵の研究書である「山陵志」などをはじめ多くの著書がある。前方後円墳の名づけ親とも言われるている。蒲生君平の墓は 確か東京の上野周辺の寺にあったような気がするが・・・。
   
左手前方を見ると、ひときは高い木が見えている。小道を通り近づくと巨大な大木で、案内板には「とちぎ名木百選 新町のけやき」とある。樹高43m、枝張り東西34m、南北31mで、根廻(写真右)はなんと20mもあるという。この木は江戸から宇都宮城下への入口にあたるところに立っていて、旅人の目印になっていた。ところでこの木の所有者は、新町自治会。
   
近くには、慶長10年(1605)に創建された台陽寺があり、山門を入って左側には子育て地蔵尊が並んでいる。この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
   
旧日光街道に戻り、200mほど行った左に、熱木不動尊がある。初代下野の国司宇都宮宗円が奥州征伐の戦勝を祈願して造った3体の不動尊の一つという伝説がある。鳥居は手造りといい、ボルト締めで組立てられているのも、なんとなくチグハグな面白さを感じさせる。
   
次の西原三と四丁目の間の十字路に、歌の橋跡があるということであるが、どうしても見つけることができなかった。あきらめて歩くはじめたら、蓬莱大黒通り看板がそこにあった。
   
少し歩くと通りの左側に一向寺がある。ここにある阿弥陀如来座像は、世の中の吉凶異変が起こる前兆として汗をかくと言い伝えられていて「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、国の重要文化財となっている。
   
その先を左折してちょっと行ったところに、寛永16年(1639)奥平家昌の正室による開山といわれる報恩寺がある。ここには何度見ても美しい江戸時代初期の茅葦の山門がある。また境内には、宇都宮氏の墓碑と見られる古い五輪塔や、戊辰戦争で戦死した官軍の薩摩戦死者墓や長州大垣諸藩の「戦死烈士之墓」がある。
   
道はやがて丁字路になって突き当たり、左折してすぐまた右折すると、真っ直ぐな道で600mgほど行くと突き当たり、そこには宇都宮地方裁判所の建物がある。またこの道の右手方向の約1kmのところに宇都宮城があるが、先を急ぐ身ゆえに割愛した。
朝から曇っていた空も晴れ、気分爽快だけでなく、カメラの方も腕に関係なく美しく見えるように撮れそうでうれしくなる。

   
裁判所の前で右折すると国道119号線で、ここはまさに市街の中心。100mほど行くと十字路があり、左折する細い道の角に、日光街道と奥州街道の追分標識が立っている。直進するのが奥州街道、ここで左折して清住町通りを行くのが旧日光街道で、この地点で奥羽州街道と別れる。次回奥州街道を歩くときはこの地点からスタートとなる。
   
119号線を横断した反対側の赤い大きな車の看板の前に、本陣跡標識があるが多分青木家であろう。
   
119号線から左折して、清住町通りに入り旧日光街道を歩く。
   
歩くとすぐ右に白い塀の中から何か由緒ありそうな立派な土蔵が見える。正面の建物も古いもので、マップではこの辺に本陣があるように記されている。株式会社上野とあるので、当時のもう一つの上野家の本陣跡ではないか思う。
   
さらに200mほど行って右の小道を入ったところに延命院がある。境内には享保年間(1716〜36)建立で、宇都宮市最古の木造建築物の一つである地蔵堂がある。またこの寺で蒲生君平が学問を学んだということで、山門の前に、蒲生君平先生少年時代修学の寺と長々と刻まれた碑が立っている。
   
さらに進み十字路を直進して行くと右側に、蒲生君平の墓がある桂林寺がある。総門をくぐり左手に曲がって次の山門に行くのであるが、その間大変広大で、まさに庭園のような錯覚をしてしまう。江戸時代はこの辺に木戸があり、宇都宮宿はここまでとなる。
   
桂林寺を過ぎると市街の中の道がまっすぐ続き、1.3kmほど行った松原三信号のある交差点で、左からくる国道119号線と合流して進む。
   
日光まで34kmの標識を見、そして単調な119号線を左手に大きな県立体育館をながめるなどをして歩く。信号から1.5kmほど先にある上戸祭公民館のちょっと先で小さな道を左折すると、子育安産高地蔵尊が安置されている高尾神社(写真右)がある。不思議なことに境内を入口のない黄色い鉄柵で囲ってあった。
   
約300m行くき交差点を過ぎると、119号線は桜並木の通りとなる。通りには白線で歩道があるが、通りの両側に一段高くなった専用歩道(写真左)があるので、左側の専用歩道を歩いた。
   
高い歩道を800mほど行くと、江戸から28里の上戸祭一里塚跡碑が檜の脇にある。実はこの一里塚を見失って近くにいた地元の人にたずねたら、通り過ごしてきたから戻った方がよいと自信たっぷりの返事。このときとても疲れていたので引き返すのも苦痛で、ままよ一里塚はなかったことにしてあきらめよう、と先に進んだら、なんと100mも行かないうちにちゃんと一里塚があるではないか! これまでも旅で地元の人に史蹟を尋ねても、9割くらいの人は知らないという。そういうことを知っていながら、つい魔がさして聞いてしまった私が悪かったと、反省しきり。
    
桜並木はいつの間にか杉並木となり、さらに800mほどで並木は終わる。そこから約100m歩くと釜川にかかる弁天橋(写真左)がある。小さな橋の上から下を見ると、小さな川がきれいな水を一生懸命流していた。
   
さらに300mほど行って、マップにある静桜を探しにセブンイレブンの脇から右折した。
  
住宅街の道を右往左往してもどうしてもその場所がわからない。先ほどの自戒の念にもかかわらず、仕方なく地元の中年の女性に尋ねたが、やはり知らないという。また後悔の念。あちこちウロウロでもダメ。ついに開店前の寿司屋に飛び込み、ご主人に尋ねたら、あの大きな木の見えるところの民家にある、という。公のマップにも載っている静桜が民家の庭にあるなどとは、予想だにしていなかった、などと心で思いながらようやくその家らしきところにたどり着いた。門から入ると右側に確かに立派な木が1本ある。よく観察し、写真も何枚か撮った後、玄関ご挨拶に伺った。出てこられたのは年配のおばあさんで、静桜の木は私が撮った木ではないという。
   
わざわざ外へ出てこられて、反対の左の畑の片隅にある、根元から枝分れが多く、背の高くない木が静桜(しずかさくら)だと教えていただいた。当然この時期花は咲いていない。
 おばあさんの話では、奥州に逃れた源義経を追ってきた白拍子の静御前が、この地にあった薬師堂で一休みしたとき、桜でできている杖をさしたら大木になったという、言い伝えがあるとのこと。そして現在の桜の木は11代目になるという。一枝に八重と一重の桜がさき、そして年によっては「細い花びらの入ったあたかも兜のような珍しい花」も咲くという。

   
おばあさんから、家にあがって休んでいくように、となんども誘っていただいたが、今 時は14時24分。もう少し今日の距離をかせがないといけないので辞退して、花びらのアルバムだけを見せていただくことにした。確かに八重と一重に混ざって、芯から細い触手ようなものが出ている花びらがある。お断りして、デジカメに撮らしていただいた。春また来て今度は実物をカメラに納めたいとおもっている。
 言い伝えであるから別に気にする必要はないのであるが、道中、静御前が亡くなった地ということで栗橋宿で墓を見てきたが、そうすると遠いこの地までどうやってきたのか、という疑問は残る。

   
旧日光街道に戻り少し歩くと左側に、徳川将軍が日光参詣時の休息所となった光明寺がある。山門は唐風で、ちょっとした竜宮城を連想させてしまう。
   
光明寺を過ぎると119号線は再度並木道となり、ここにも両側に一段高い歩道がある。排気ガスに悩まされることなく、誰もいない道を歩いた。
   
約500m行くと並木が一旦消えて、またまた並木のトンネルに入る。ここでも両側に高い歩道があるので、安心して歩くことができる。
   
並木の中を800mほど歩くと、前方に宇都宮インター入口の高架が見える。
この下をくぐると、徳次郎宿へ向かうことになる。時は15時07分。
  
雀宮宿 徳次郎宿へ
                   
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