駿河国富士市
吉原宿
から蒲原宿へ
江戸日本橋から吉原宿まで135.9km、吉原宿〜蒲原宿間11.1km
         
この区間は2002.3.3に沼津宿を出発して原宿を経て歩いた。
天候は濃い曇り空で、かつ寒い日のためデジカメを持つ手がフリーズしてうまい、
写真が思うまま撮れなかったことが心残りであった。
 富士市境界元吉原吉原JR富士駅前

吉原宿:吉原湊は古くから海運の拠点として栄えたところであり、江戸時代は元吉原辺りに宿が設置されたいたが、自然災害が多く高潮などの災害をたびたび受けていたため、1616年(元和2年)に中吉原に移転した。
しかし1680年(延宝8年)の大津波で宿は壊滅し東海道も通行不能となった。そのため東海道は北へ大きく迂回する経路となり、また吉原宿も現在の中央町周辺に移転した。
吉原は水に恵まれていたため江戸時代から製紙が盛んで、製紙産業の町として発展してきた。
 本陣:2、脇本陣:3、旅籠:60、人口:2,832人

   
 ここの東海道は沼津市の乗運寺からほぼ一直線の平坦な道である。
東海道本線を横断して富士市に入るとすぐ県道富士清水線と合流し、約800m行くと右手にJR東田子浦駅があり、その駅の手前に
六王子神社(写真)がある。この神社には三股の伝説がある。「昔、沼川、和田川、深井川が合流し深い淵となっている所を三股と呼んでいた。ここには龍が住んでいて毎年お祭りに少女をいけにえにして捧げるしきたりになっていた。400年ほど前に7人の巫女が関東から京都へ向かう途中、このいけにえのくじを一番若いおあじが引き当ててしまった。残った仲間6人は国元へ引き返す途中悲しみのあまり浮島沼に身を投げてしまった。村人が6人の亡骸を弔ったのがこの六王子神社」だという。 なおおあじは鈴川の阿字神社に祀られている。
   
 さらに300mほど行くと道の右側に立円寺があり、この境内には望郷碑(写真左)と並んでゲラテック号遭難の誌(写真右)がある。望郷碑は文化5年尾張藩の侍医柴田景浩が江戸への旅中立円寺に滞在し、ここから見た富士の絶景をたたえて碑を建てたもの。ゲラテック号(船籍インドネシア)は昭和54年10月19日、清水港から救援米を運搬中に台風に遭遇し立円寺南方の柏原海岸に船体が打ち上げられるとともに、二人の人命が失われた。当時はマスコミにも大きく取り上げられた海難事故である。
   
 立円寺から300mほど歩くと、昭和放水路にかかる平沼橋(写真左)に到達する。この地の水害と飢饉を解決するためには駿河湾への排水路を作って浮島沼を干拓することが悲願であった。それを原宿の増田平四郎が27年間にわたって官に願いでて、ようやく認めらて1867年(慶応元年)に長さ505m、幅7mの大掘割(これをスイホシという)を完成させた。しかしその年の夏、高波に襲われて損壊してしまったが、しかしその意思は後世の人たちに継承され現在の昭和放水路(写真右)となって成就された。
 この頃は、寒さで手がフリーズしてしまい
(手袋はスキー以外では使用していない)、デジカメ操作もままならない状態であった。
   
 橋を渡り左に放水路沿いにちょっと行った松林の中に、平四郎像(写真)が放水路を見るように立っている。
   
 舗装された平坦な広い道路を淡々と西へ約1.6km行くと、右側歩道に面した庭に高橋勇吉と天文掘碑(写真)がある。高橋勇吉は天保の大飢饉による村民の困窮に心を痛め、自分の田畑や財産を売り払い、かつ多くの反対や苦難を乗り越えて、1836年(天保7年)から14年かけて三新田(大野、桧、田中)の80ヘクタールに及ぶ水田に立派な排水掘を完成させ、幾多の水害から守った。勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことから、この掘割のことを人々は「天文掘」と呼んだ。
現在は土地改良や道路の開発が進み、勇吉の天文掘はその跡を見ることができないという。
 昔は、金持ちはこのように人々のために積極的にその財産を投げ打って役立てたというが、現代のこの金々に狂っている世の中は、どうなっているのかと思ってしまう。しかし、それにつけても金の欲しさよ!ですか。

   
 実際には目には見えないけれど、右手はJR東海道本線、左手は駿河湾とによって挟まれた旧東海道をただひたすら歩きつづける。やがて700mほど行った左手の小高い杜の境内に毘沙門天妙法寺があり、参道を登っていくと、中国風色彩のインド風寺院を思わせる派手な建築物が目の前に現れたので、正直ビックリしたが、これが妙法寺(写真左・右)である。境内は広く大駐車場もあり、建物だけでなくスケールをも感じさせる異色の寺である。旧暦の1月7日〜9日に日本2大ダルマ市として知られる毘沙門天大祭は、50万人の人出で賑わうという。
   
 毘沙門天あたりは元吉原の町並みで、ようやく市街地に入ったという雰囲気である。その道を300m行くと道が分岐し、左手の細い道はJR吉原駅南口の方へ行く。旧東海道は右手の直角に曲がる道で、曲がるとすぐJR東海道本線の踏切を横断し、目の前の大昭和製紙工場の塀に沿って左へ曲がる。ここから道なりで数百m行くと登り勾配で沼川にかかる河合橋にたどり着く。この河合橋手前の登り坂道の左側の足元に小さな馬頭観音(写真)があったが、多分普段は人目につかないので見逃されているかもしれない。河合橋に立って左手を見渡したら製紙工場の煙突群(写真)なんでしょうか、遠くに林立して煙を棚引かせていた。
   
 河合橋を渡るとすぐ大橋バス停のところで道が分岐するが、左の道を選んで北西の方へ行き富士由比バイパス、東海道新幹線をクロスして進む。河合橋から約1.2km地点の日清紡富士工場前交差点の前方左のコーナーに名勝左富士の碑(写真)がある。そして晴れていれば写真で一番手前の電柱の左側に美しい富士の姿があることになている。でもこの日は全くの曇天で姿かたちの気配さえなく、悲しいことであった。
原宿からこの辺あたりまでは富士の景色を堪能しなければならないのに、天は味方せず、これがいわゆる日頃の行いが悪いせいだとすれば、早速行いの点検しなければならないと思った。
なお左富士とは、東海道を西へ行くとき富士はいつも右手に見えるが、ここでは道のひずみにより松並木の間から左手に見えるので、左富士と言った。ただその松も写真のようにただ一本残るのみである。
 なお東海道では、ここ以外では茅ヶ崎の南湖の左富士が有名である。

   
 そのまま日清紡工場の脇を直進していくとやがて左側に和田川が見え、約500mのところで道の分岐点にくるが、左折して橋をわたる方が旧東海道になる。この橋は平家越え橋(写真左)といい橋をわたった右の橋詰に平家越碑(写真右:逆光で見難い)がある。この碑は、1180年(治承4年)源氏軍と対峙し富士川と浮島沼に陣取った平家の大軍が、水鳥の羽ばたきに驚き退却したという、富士川の合戦を記念して1924年(大正13年)に建立されたもの。
   
 橋から北西に直進していくと約600m行った左側に岳南鉄道吉原本朝駅があり、この辺から吉原の商店街となる。商店街のメインストリートを約700m歩いた静岡銀行の交差点(写真)を左に曲がる。そこから道なりで行き小潤井川にかかっている志けん橋を渡り、国道139号線に出る。139号線を南に100m程行くと十字路の交差点があり、右折して富士市役所前あたりへ行き、そこから左折して南下する旧東海道があるはずであるが案内板もなく探し回った。近くのGSの店員、車販売の店員、通行人など地元の人々に聞いても旧東海道などは全く関心外で分からずじまい。試行錯誤で行ったり来たりで1時間近くロスをしてしまった。なんのことない139号線から一本西へ行った細い道が目的の道であったが、ちょっと入口が目立たない位置にあるので案内板が欲しいところである。
   
 旧東海道を500m南下すると5叉路の複雑な交差点に出るが、右から2番目の道を選んで横断して進む。200mほど行って右に入り潤井川にかかる富安橋(写真)をわたって住宅街の中を歩いていく。
   
 閑静な住宅街の広い道を富安橋から約1km歩いた、左側の民家の前に鶴の絵と漢詩を刻んだ鶴芝の碑(写真)がある。このは碑は1820年(文政3年)に建てられたもので、絵は画家の蘆州、漢詩は江戸の学者亀田鵬斎によるものである。詩文の内容によると、この地は間の宿「本市場」といい、鶴の茶屋というのがあり、ここからの眺める富士は素晴らしく特に中腹にある芝生のように見えるところは、鶴が舞うようであった、とある。
 このまま道なりで600m程行くとJR東海道本線富士駅前の富士本町商店街にたどり着く。
   
        
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